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映画079 ツリー・オブ・ライフ

 『ツリー・オブ・ライフ』  2010年 テレンス・マリック

極めてシンプルな映画で、冒頭にはヨブ記からの引用が掲げられている。

「わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い神の子らは皆、喜びの声をあげた。」

そしてナレーションで語られる、二種類の人間。
一方の人間は、世俗での成功を徳とする。そして、もう一方の人間は神にすべてを委ねる。

冒頭に掲げられたヨブ記でとは善人ヨブは神に試され酷い仕打ちを受ける。それでも神を信じ続けたヨブは最後には報われる、という話である。
何事も自分の知っていることや自分の正しさを過信すればするほど身勝手になり、自分の力を過信する。その少しの過信が大きな過ちに繋がってゆく。
すべての物事は神の元に定められており、どんな良い出来事も過信せず、どんな悪い出来事にも挫折してはいけない。そういうような意味を持っている、と個人的には思っている。つまり、冒頭から、この映画の中では、全うに生きようとしているのに訪れる様々な困難が暗示されているわけで、それはタイトルのツリー・オブ・ライフ、つまりエデンの園に生える生命の樹が所以になっているところからも、全編に神の支配と人間の関係が描かれているのではないかと分かる。

そして物語が始まる。
厳格な父(ブラッド・ピット)と、特に異を唱えないながらも何か違和感を持ち続けている母、そこに三人の息子たちがいる。どこにでもありそうな家庭だけれど、厳格な父は世俗での成功を得るためには時に人は悪人にならねばならぬ、と言う。
しかし、母は常に善人であれ、と言う。
その矛盾の中で迷う子供たちは、時にいたずらに明け暮れ、どこか全うな道から外れてゆく。

もう一つの物語は、その長男(ショーン・ペン)が壮年期に入って、何やら高層ビルの豪奢な椅子に座っているところから始まる。彼はどうやら世俗的には成功を納め、名声を得ているようである。
しかしその表情はどこか浮かない。
彼の回想が淡やかな映像で捕らえられ、それが父母と過ごした幼少時代なのである。
そして、彼の回想は、視覚的なことや言葉から想起されるものではなく、
アンチロマンの作家、ナタリー・サロートが「マルトロー」や「プラネタリウム」で提示したような意識の流れ、に支配されていて、脈略も無く断片的な思い出が駆け巡る。
悲しい出来事はそれをひとくくりに、楽しい出来事もひとくくりに、時系列もめちゃくちゃな回想が続く中、ある日起きた二男の事故死が大きな影を落としていることが提示される。
ナレーションの中、長男は「次男は19歳で死んだ。」と言っている。
にも関わらず、映像の中に現れる二男の事故は10歳前後の姿である。
観客は混乱に陥るかもしれないけれど、私たちの「思い出」というものはどこか改ざんされていて、絶対的な自分のイメージに支配されている。理性では19歳のときに死んだことを理解していても、イメージとしてある二男の死は、自分の自我の芽生えとの葛藤を持っていた幼少時代(12歳ぐらい?)の強い記憶に押し流されてしまっているのだろう。さらに彼の後悔は、他人から見れば些細な出来事の羅列であるにも関わらず、彼にとってはどこか深い傷として残っているようで、様々な角度から「善人であろうとして、善人になれなかった」自分が映し出されている。
そこには、厳格な父への反発と、それでも愛していたいという葛藤があり、それは壮年期にはいってからも変わらずに葛藤として持ち続けていたのだろう。どのようにして、父の存在を乗り越えていくのか、それがこの映画のひとつのテーマである。

さらにこの二つの物語(主に幼少期の物語なのだけれど)の合間に何度も、宇宙の形成から地球の形成へ、そして生命の誕生へと続く、自然現象を映しだした無言の映像が現れる。
その意味は明白である。単純に過去から現在へ連なる命の系譜(ツリー)が映し出されているのだろう。
生命の形成から現在の自分の置かれた立場まで、それはすべて神の手のひらの中にある、とでもいうような、そして、宇宙や地球の歴史と、名もなき個人の歴史の大きさには何の差も無い、ということを言っているのだろう。そこには「意識の流れ」が持つ特有の無作為抽出が行われていない分、やや短絡的な印象を与えるし、若干、中心の物語との関連が強引な感はある。しかし、それでも物語を分かり易くする仕掛けとしては良いと思った。

結局は、壮年期に入った長男は自分の過去を思い起こしながら、父への違和感を克服してゆくプロセスが描かれているので、神と自分との関係性というものは描かれていない。しかし、描かれていないからこそ描かれている、と言うと意味が分からないが、何事かの葛藤があり、それをどう越えてゆくのかということが神が与えた試練であり、それが人生というものだと暗に言っているのだと思う。
つまり最初から最後まで一貫してヨブ記に暗示された人生の葛藤とその克服が、生命の創世と共に描かれているわけで、とてもシンプルな構造になっている。
しかし、極めて説明が少なく、セリフも少ない。そして前述したようにナレーションで語られることと実際の映像の差。さらに意識の流れに支配された時系列の無い文脈に、見る人によっては混乱するかもしれない。その難解さも、何か人生の持つ混沌や困難さのようで、むしろ正し選択のように思える。
映画は必ずしも分かり易く物事を伝える手段では無い。場合によっては、遠回りを重ねて結論に近づいてゆく。その緩やかなスピードが心地よく、久々に良い映画を見た。

映画 外国

映画078 浮草

 『浮草』 1959年 小津安二郎

小津安二郎の作品は無声映画、白黒、カラーと多岐にわたっている。その中でも一番見られているのは『東京物語』に代表されるような、原節子やら笠智衆やらが常に家族を演じ、作品毎に同じような形式から違う主題を導き出した1940年代〜1956年の『早春』ぐらいまでの作品だろう。
その後、1957年に小津安二郎が描く世界としては際立って異質で暗い『東京暮色』があり、それ以降の6作はカラーで撮られている。
以前にも書いたことがあったけれど、僕は小津映画というものがあまり好きではなかった。ローアングルの固定カメラで映し出される市井の人々の日常を、こっそり覗いているような気がしてどこか気分が落ち着かなかった。しかし、アメリカに住んでいる頃にやっていた小津映画特集を見るうちに、そこに映し出されている「静」が、ある種のヨーロッパ映画の持つ静けさとも隔絶していることを理解したときには何か大人になったような気さえした。その当時の僕はやはり小津映画と言えば白黒という印象を強く持っていたけれど、最近になって晩年のカラー作品を見直していたらどの作品も美しかった。
その中でも戦前の自作無声映画『浮草物語』を自らリメイクした『浮草』の印象は強烈で、、小津作品で唯一宮川一夫が撮影を行ったその映像美、そして安定した住居を持つ家族を描いた作品が多い中、ドサ回りの一座が立ち寄った志摩半島が舞台であること、など異質な雰囲気に満たされている。

ドサ回りをする嵐駒十郎一座が立ち寄った志摩半島のとある漁村、そこには座長の駒十郎(中村鴈治郎)が密かに子供を産ませたお芳(杉村春子)が住んでいる。しかし駒十郎には同じ一座の中に公然の仲のすみ子(京マチ子)がいて、何とかすみ子の目を盗みながら伯父だと偽りながら息子である清に会いに行っていたけれど、それを怪しんだすみ子は妹分の加代(若尾文子)をそそのかして清を誘惑させている。そんな中、一座の公演は不入りで挙句の果てには一座の人間にお金を盗まれて一座は解散を余儀なくされる。駒十郎とすみ子の不和も頂点に達した駒十郎はお芳のところへ行って三人で暮らしていこうと告げる。しかし、いつの間にか本気の恋へと変わっていた清と加代は駒十郎に仲を認めて貰おうとするが、折角新しく家族を再生させようとした駒十郎にとってそれは痛い仕打ちのように思えた。思わず加代を殴ってしまった駒十郎と清の間に悶着が起こり、たまりかねたお芳は清に駒十郎が本当の父親であることを告げ、駒十郎はまた旅へ出ることを決心する。

何よりもまず印象的なのが宮川一夫の映像である。とにかく赤が強い。こんなにも強い赤に満たされた小津映画は他には無い。そして、基本的にローアングルでの中距離撮影や、顔のクローズアップを多様する小津映画で、多分唯一であろう遠距離からの撮影が強い印象を残している。駒十郎一座が漁村にやってくる。その道行を子供たちが囃し立てながら小道へと消えてゆく、その漁村にとっては「ハレ」であろう瞬間を俯瞰図として捕えている。別に映画というものはその撮影テクニックを知ったからといってより深く知れるものではないけれど、そこには他の小津映画にはない土地への愛着が見れるような気がして印象深い。
お芳との関係に気付いたすみ子が駒十郎を責め立てるシーンでは、豪雨の中、小道を挟んだ軒先に二人が立つ。土の匂いに満たされるような雨の中、二人がにじり寄る。歌舞伎を見ているような気迫で、激しく、そして美しい。お芳の家でお茶を飲む駒十郎のシーンは静けさに満たされている。二人の女の静と動の感情がうごめく中、駒十郎には一貫して主体が見えない。何となく流れ流されてきた浮草のような人生なのである。そこにはどこか喪失感があって、物悲しい。

その中で展開されるドサ回りの一座の人間模様。加代に清を誘惑するようにけしかけるすみ子。その関係は本当の姉妹のような信頼関係ではないし、本気の恋愛へと発展してゆく加代の心情をすみ子は決して予測出来ないし、すみ子と駒十郎の関係も決して夫婦のそれでは無い。ただそれは苦楽を共にした一座の人間関係であって本当の家族の関係ではないのだけれど、決して小津映画の描く家族と遠い存在ではないように思える。結局、人が生活を共にしながら生きていく姿は一種の家族とと言えるのかもしれないが、そこには家族の関係にあるような何があっても根底には信頼がある、というような関係では無く、どこか脆い。そしてその脆さを打ち消すように駒十郎はお芳との間が切れない。切れないけれどもそこにも家族を作ることが出来ない。
『浮草』は無声映画のオリジナル『浮草物語』で描かれたものと全く同じ構造ではあるけれども、それが白黒映画時代に執拗なまでに家族を描いた小津安二郎が改めて描いた家族不在という家族を描いた映画なのだと思う。
ラストシーン近くで駒十郎は「これでいいんだ」と自分に言い聞かせて村を去って、またドサ回りを続けることを決心する。そして駅の待合室にいけば、すみ子がいて、黙って煙草の火を点けてくれる。
結局は、芸人でしかない二人はまた苦楽を共にすることを決める。
そこには芸事の世界に生きる人々の物悲しさしかない。しかし、彼らにとっては悲しみも何もかも乗り越えなければいけない事情がある。なぜなら彼らは例え辛くとも何かを捨ててでも、芸の世界以外に生きる道も生きたい道も無いのだ。
同じように明日の人生も分からない仕事をしている僕にとって、どうしてもこの映画は忘れがたい。
映画 日本

映画077 バベットの晩餐会

『バベットの晩餐会』 1987年 ガブリエル・アクセル

デンマークの辺鄙な漁村に自らキリスト教の宗派を作った男と彼の美しい二人の娘、マーチーネとフィリパが住んでいた。美しい彼女たちに言いよる男はたくさんいたけれど、猛烈な誘いを交わしながら二人は父の仕事を手伝いながら厳格な宗教的生活を守りぬいてゆく。
やがて父が亡くなり、二人は父からの仕事を受け継いで村の人々の心のより所となりながら齢を重ねていたある日、突然、一人の女性が遠い昔フィリパに想いを寄せた歌手からの紹介状を携えて彼女たちを訪れる。その女性はバベットという名でフランスから亡命してきたのだという。そして、この小さな村で匿ってもらえなければバベットに残された道は死のみであると言う。
二人は戸惑いながらも彼女を受け入れ、バベットは料理人として住み込むことになった。

それから長い歳月が流れ、バベットは村の中にも溶け込んで、何よりもその質素でありながら素晴らしい料理の数々に皆が喜び、いつしかバベットは二人にとっても大きな存在となっていた。やがてバベットの元に朗報が飛び込む。毎年、パリに住む友人に買ってもらっていた宝くじが当たり、バベットは1万フラン手に入れることになったという。
それは、年老いてきたマーチーネとフェリパが父親の生誕100年祭をささやかに村人たちと祝うために晩餐会の構想を練っていた矢先であり、バベットはその料理を作らせて欲しいと願い出る。
姉妹たちは、質素な料理で簡単に済ました方が良いと考えるもバベットの強い意志と彼女からの初めての願いに、晩餐会の料理をバベットに任せることを決め、バベットは喜びながらフランスからの食材を手に入れる為に休暇を取る。
バベットがいない間、大金を手に入れた彼女はもうこの村には戻って来ないのではないと姉妹は不安なときを過ごすけれど、しばらくして豪勢な食材とワインを携えたバベットが戻ってくると、今度はあまりの贅沢さに、これは悪魔の誘惑なのではないかと姉妹は不安に陥ってゆく。何の根拠も無く、姉妹はバベットが料理に毒を入れて村人を皆殺しにするような気がしたり、何か天罰がくだるのではないかと恐れるけれど、結局はもしもそれが運命ならば甘んじて受け入れることを決意する。そしてその意を村人たちにも伝えて、決して料理を味わわずに他のことを考えながら晩餐会をしよう、ということになる。
そして晩餐会の夜、昔マーチーネに想いを寄せていた軍人ローレンスもその席に加わり、遂に食事が始まる。次々に運ばれてくる豪華な料理に舌鼓を打つローレンスと、押し黙る村人たち。それでも料理は次々と進み、いつしか年を重ねて意固地になってお互いにいがみ合いを続けていた村人の心もうちとけてゆく。おいしい料理と完璧なワイン。食事が終わりに差し掛かるとローレンスが思い出話をする。
将軍へ昇格するときのお祝いで連れていってもらったパリの最高級レストランで今日と同じような料理を食べたことがあり、そして、そのシェフは驚いたことに女性だったというのだ。
もちろん皆、それがバベットのことであると気づくけれど、何も言わずに晩餐会は終わる。
村人たちは幸せな気持ちで家路につき、残された姉妹はバベットに感謝の言葉を告げ、そして、同時にバベットにフランスに帰るつもりなことは分かっていると言う。
しかしバベットはもうフランスに帰るつもりはないと言う。何故ならば宝くじのお金1万フランはすべて食材に使ってしまったからお金が無いからだと言い、姉妹はバベットの真心に心打たれる。

この映画を撮ったガブリエル・アクセル監督は、正直他の作品は下世話で何とも言い難いのだけれど、この『バベットの晩餐会』に描かれる抑圧された静かな世界はとても美しい。
もちろんこの映画の主題はキリスト教的な献身である。しかしキリスト教の中にもたくさんの思想がある。姉妹が従事しているのはデンマークの片田舎の一つの村の中だけで信仰されているプロテスタントの小さな宗派であり、バベットはフランスの厳格なカトリック信仰に生きてきた。
姉妹からすれば、カトリック信仰に対して、一言には言い表せない複雑な感情を抱いていたに違いないと思う。カトリックは一つの権威である。バベットが晩餐会の食事を盛大なものにすると決めた際に疑念が湧くことも理解し得ないことではない。隔絶された一つの宗派が他のキリスト教信仰によって、何かを壊されてしまうことを恐れたのだろう。
結局は姉妹の心配も徒労に終わり、むしろバベットが何も語らずに最高の晩餐という形で自らの感謝を見せたことで姉妹とバベットはキリスト教的な愛で結ばれたのだろう。
過去を語らずに頑なに生きたバベットの生き方は恐ろしく強い。しかし、そんな彼女に疑念を抱いた姉妹の信仰は一見バベットに比べて弱いようにも見える。しかし、それは小さなプロテスタントの一派からしてみれば至極当然の疑念であり、必ずしも姉妹が弱い人間であるわけではなく、むしろ村の信仰を守るという責任感の強さからであると思う。違う強さを持った人間が打ち解けあい、最後には分かりあう。

しかし、やはり一番重要なのはバベットの献身で、彼女は自分の持つ財産をすべて投げうって、会ったことの無い姉妹の父親の聖誕祭に心を尽くした料理を提供する。つまり彼女の行為は、姉妹への感謝であると共に、持っているものをすべて投げうつ愛である。
別にキリスト教的な生き方を賛美するわけではないけれど、自らの持つすべてを投げうって誰かのために尽くすことがどんなに大変なことであるか考えると、何かこの映画は切実に胸に迫ってくる。一体何が正しい生き方なのか、それは誰にも分からないけれど、バベットの献身はとても強く美しい生き方だと思う。
映画 外国

映画076 駅 STATION

『駅 STATION』 1981年 降旗康男

僕は高倉健が大好きなので、健さんが出ていれば何でもいいやというところも無きにしも非ずだけれど、『網走番外地』や『日本侠客伝』シリーズの頃の無口で男気に溢れている高倉健と同じくらい、任侠映画が衰退した後にも自分の役柄というのを頑なに守り続けている高倉健も好きだ。
僕にとって映画を見始めた頃の高倉健は任侠映画のヒーローだった。そして、いつだったか初めてみたヤクザ役ではない健さんは『飢餓海峡』だった。もちろん、僕はリアルタイムで見ているわけではないので、自分の趣味に偏った見方をしてしまうから『飢餓海峡』を見たときには、こんな高倉健もいるんだという新鮮な驚きがあった。
そんな無骨で無口で影のある男で、しかも問答無用に女にモテる高倉健演じる主人公たちの中で僕が忘れがたいのは、80年代、降旗康男監督と組んだ『駅 STATION』と『居酒屋兆治』の二作で、両方とも何度でも見返してしまう。
ただ『居酒屋兆治』に関して言えば物語の緩さも多分にあるし『駅 STATION』の成功があったから作られた、所謂二番煎じだと言えるのかもしれない。しかし、決して駄作ではないし、それはそれで魅力的なのだけれども、やはり『駅 STATION』の完璧なほどの美しさには及ばない。

高倉健は警察官でオリンピックの代表にも選ばれるほどの射撃の名手の役である。しかし、それも物語の中で段々と垣間見えてくるだけで、この映画には説明くさい部分が一切無い。
例えば冒頭では、さびれた駅のプラットホームで無邪気に遊ぶ子供とその母親らしき女性(いしだあゆみ)が映し出されて、少し離れた所に高倉健ともう一人男が立っている。その映像からは彼らの関係性は何も分からないけれど、どこか楽しそうな雰囲気である。が、しかし、子供が高倉健に駆け寄って「お父さん、お弁当欲しい」とか何とか言うあたりから明るさに満たされていたはずの画面が突如悲しみに満たされてゆく。動き始める列車。母親は涙を流している。それを見送る高倉健。
その出来事が何であったのかは、物語が動き始めてから少しずつ説明されてゆく。
その後も高倉健は、射撃の名手であることから難事件の犯人射殺役を言いつけられ、犯人たちを殺し続けている。しかし、その一方、事件を介して出会う女性(烏丸せつこ)や、ふと立ち寄った飲み屋の女(倍賞千恵子)の生きざまを見つめつつ、自分の仕事の空しさや哀しさを抱え込み、女たちに何か心のより所を見つけている。
しかし、烏丸せつこ演じる殺人犯の妹すず子に恋心を持つわけではない。必死になりながら兄をかばい、紆余曲折の末、兄が消えさってからも彼女は健気に働いている。ただその姿を見つめているだけである。
倍賞千恵子演じる飲み屋の女とは、恋に落ちる。いや、恋ではないのかもしれない。ただ心の淋しさを埋め合わせるためだけに二人は少しの間寄り添っていたのかもしれない。だから、二人とも素性を語らない。過去に何があったのかを知らないままに一時だと分かりながら幸せを味わっている。

結局、主人公は孤独なのだ。人の命を奪うことの罪悪感に苛まれながら、それを語る女もいない。一人ぐっとたくさんの思いを心の底にしまいながら生きてきた男なのだと思う。だから彼は自分を慰める何かが必要で、それを探している。そして主人公の目を通して、彼の前を通りすぎてゆく女たちの人生が見える。それは決して映画の中では描かれないものだけれど、すず子にしても飲み屋の女にしても彼女たちには過去がありその先に未来があることが明確に描かれている。他の人々のひとつひとつの台詞や行動の中にも人生の後ろ側がおぼろげに現われて、それが折り重なっていくにつれて物語の中に無数の人生が広がってゆく。
もしも人生が一本の線であるならば、その線同士が重なりあった一瞬がこの映画には描かれていて、ひとつの線を越えれば、またどこかで違う線が重なりあう。その瞬間が美しくて儚い、限りあるものとして描かれている。
だからこの映画は美しい。ひとりの主人公を通してたくさんの人間の人生が浮き彫りにされて、そこには様々な歓びと哀しみがあることが見えるから美しい。
その人生があまりにも些細で、決して富や名声を得られるものでないとしても、限りある生を懸命に生きているということだけで、生きることの意義を見たような気がする。
だからこの映画を見ると、いつでも、ただ生きているだけでもそれが本当に美しいことなんだと感じる。人と出会い別れ去ってゆくことの繰り返しかもしれないけれど、その中に生まれる喜びや哀しみを感じることが人生にとって大切なことなのだと思う。
ちょっと大袈裟すぎるけれど、それくらい僕はこの映画が大好きで仕方がない。
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映画075 妖刀物語 花の吉原百人斬り

『妖刀物語 花の吉原百人斬り』 1960年 内田吐夢

新文芸坐の内田吐夢特集上映でずっと未見だった『妖刀物語 花の吉原百人斬り』を見た。とにかく最後の桜吹雪の中での大立ち回りが美しいという話だったのだが、全体を通して総じて美しい映画だった。
この『妖刀物語 花の吉原百人斬り』は歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」に題材を取り、しかし歌舞伎からは大きく役柄を変えた遊女・八ツ橋(水谷良重)と年齢を30歳の設定と各段に若くなった佐野の次郎左衛門(片岡千恵蔵)が映画に映像である理由を与え、物語の大胆な変更もただの痴話話のもつれからの殺人事件に留まらない男女の業の深さを見事に説明していた。

まず、概略ではあるが「籠釣瓶花街酔醒」では、田舎に住むお金持ちで、醜い顔に生まれついた次郎左衛門が見物のつもりで立ち寄った吉原で出会う花魁・八ツ橋に一目惚れしてから通いづめで身受けの話までどうにかこぎつけた矢先八ツ橋の養父の差し金によって、満座の中、次郎左衛門は八ツ橋に袖にされ、それを恨みに、一度抜けば必ず血を見ると言われる妖刀・籠釣瓶で八ツ橋を切り殺す。
これに対して、僕が大好きでいつも聞いている寿々木米若の浪曲「吉原百人斬り」では、大筋は同じであるが殺しの場面に相違がある。満座で恥をかいた次郎左衛門は一度田舎に帰り日を改めて妖刀と共にやってくるのに対して、浪曲では、八ツ橋と次郎左衛門の座に、八ツ橋の許婚が現れて、その場でどちらの男を取るか、という争いになり、さらには八ツ橋の父の敵が次郎左衛門の父であることが発覚したりしながら、幼刀の存在は一切なく、逆上によってその場で八ツ橋と許婚を殺す。
この両者に共通しているのは、次郎左衛門の性格は田舎者の世間知らずではあるものの押し並べて良く温厚である。しかしそれが一たび花魁を見染めて以来気も狂ったようにお金をつぎ込み、そして振られたことの怒りによって花魁を切り殺すところにある。

もちろん歌舞伎や浪曲の素晴らしさもあるが、特に歌舞伎に関しては若干の野暮ったさがあってどこか物語に力がないように思える。さらに田舎者が花魁の色香に迷った末の人殺しとは、実際の事件を元に描かれているとは言え、何と無く男性側の悲劇であり、花魁に人間的な魅力というのが少し見えずらい。
『妖刀物語 花の吉原百人斬り』での内田吐夢監督の変更点で特に大きいのはその花魁の描き方の凄まじさで、ともすればこの物語は八ツ橋の悲劇であるかもしれないと思うほどである。まず八ツ橋はそもそも太夫ではなく、岡場所で非合法で売春を繰り返していた女という設定である。それが御用となり吉原での一生奉公を命じられることになる。周りは幼いころから教育を受けてきた花魁たちである。その中に一人、何のルールも知らない粗野な女つるは、花魁たちが顔にあざのある次郎左衛門を嫌がり、急場しのぎで花魁にしたてあげられて、玉鶴という名で座敷にでる。皆に怖がられて育ってきた次郎左衛門は、物怖じしない玉鶴に優しさを見出して贔屓客となり、吉原の掟も分からぬままに私財を投じて玉鶴を最高位の太夫に仕立てようとする。
しかし次郎左衛門の国では自然災害も手伝って仕事が傾き金の工面にも苦労し始めると、すべての雲行きが怪しくなりはじめて、遂には資金繰りも滞り、折角太夫にまで仕立てた八ツ橋(元・玉鶴)に愛想を尽かされて、桜の頃、八ツ橋の花魁道中に妖刀村雨「籠釣瓶」を持って斬りかかる。
しかしそこで恨みを持つ相手は郭の主人や郭で生業を持つ人々と八ツ橋である。桜吹雪の中の壮絶で美しい立ち回りの中、次郎左衛門は「吉原の悪人出て来い」と叫ぶ。彼は、善人でありながら金をむしり取られて愛想を尽かされたすべての原因を吉原という場所に求めている。
そこには、恋にほだされた男の哀しさがある。
その悲痛な気持ちとの中、八ツ橋も閉ざされた吉原大門によりかかるように斬られ、豪奢な衣装に身を包んだまま倒れてゆく。

この八ツ橋、岡場所出身であり他の花魁たちに馬鹿にされ無碍にされながら、したたかに、いつか見返して松の位の太夫になる、という野望を抱いている。どこか、人生の底から這い上がって、形振り構わずに成功を求めるその強さ、そして、そのうちに秘めた自分の人生の哀しさが入り混じって、歌舞伎で描かれる八ツ橋よりも壮絶で美しい。しかも水谷良重が決して美人では無く、強気で虎視眈眈と目を光らせる様子、そこに見える女の強さというのが感動的で、それが花の吉原での立ち回りになれば、やっと太夫になったというのに悲運の最後を遂げてゆく。

二人の二用の悲劇が淡々と描かれてクライマックスに昇りつめてゆく様子が素晴らしいし、何といっても二人の心象風景の描写が美しい。決して二人ともが悪人では無い。善人であるが故に結局は恋が終わり被害者と加害者に分かれてしまう。
こういう時代劇があるというのはとても幸せなことだと思う。

上映後には、水谷八重子(元・良重)さんのトークショーもあって、いろいろと撮影の裏話を話してくださって、それも何だか楽しかった。
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