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映画079 ツリー・オブ・ライフ

 『ツリー・オブ・ライフ』  2010年 テレンス・マリック

極めてシンプルな映画で、冒頭にはヨブ記からの引用が掲げられている。

「わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い神の子らは皆、喜びの声をあげた。」

そしてナレーションで語られる、二種類の人間。
一方の人間は、世俗での成功を徳とする。そして、もう一方の人間は神にすべてを委ねる。

冒頭に掲げられたヨブ記でとは善人ヨブは神に試され酷い仕打ちを受ける。それでも神を信じ続けたヨブは最後には報われる、という話である。
何事も自分の知っていることや自分の正しさを過信すればするほど身勝手になり、自分の力を過信する。その少しの過信が大きな過ちに繋がってゆく。
すべての物事は神の元に定められており、どんな良い出来事も過信せず、どんな悪い出来事にも挫折してはいけない。そういうような意味を持っている、と個人的には思っている。つまり、冒頭から、この映画の中では、全うに生きようとしているのに訪れる様々な困難が暗示されているわけで、それはタイトルのツリー・オブ・ライフ、つまりエデンの園に生える生命の樹が所以になっているところからも、全編に神の支配と人間の関係が描かれているのではないかと分かる。

そして物語が始まる。
厳格な父(ブラッド・ピット)と、特に異を唱えないながらも何か違和感を持ち続けている母、そこに三人の息子たちがいる。どこにでもありそうな家庭だけれど、厳格な父は世俗での成功を得るためには時に人は悪人にならねばならぬ、と言う。
しかし、母は常に善人であれ、と言う。
その矛盾の中で迷う子供たちは、時にいたずらに明け暮れ、どこか全うな道から外れてゆく。

もう一つの物語は、その長男(ショーン・ペン)が壮年期に入って、何やら高層ビルの豪奢な椅子に座っているところから始まる。彼はどうやら世俗的には成功を納め、名声を得ているようである。
しかしその表情はどこか浮かない。
彼の回想が淡やかな映像で捕らえられ、それが父母と過ごした幼少時代なのである。
そして、彼の回想は、視覚的なことや言葉から想起されるものではなく、
アンチロマンの作家、ナタリー・サロートが「マルトロー」や「プラネタリウム」で提示したような意識の流れ、に支配されていて、脈略も無く断片的な思い出が駆け巡る。
悲しい出来事はそれをひとくくりに、楽しい出来事もひとくくりに、時系列もめちゃくちゃな回想が続く中、ある日起きた二男の事故死が大きな影を落としていることが提示される。
ナレーションの中、長男は「次男は19歳で死んだ。」と言っている。
にも関わらず、映像の中に現れる二男の事故は10歳前後の姿である。
観客は混乱に陥るかもしれないけれど、私たちの「思い出」というものはどこか改ざんされていて、絶対的な自分のイメージに支配されている。理性では19歳のときに死んだことを理解していても、イメージとしてある二男の死は、自分の自我の芽生えとの葛藤を持っていた幼少時代(12歳ぐらい?)の強い記憶に押し流されてしまっているのだろう。さらに彼の後悔は、他人から見れば些細な出来事の羅列であるにも関わらず、彼にとってはどこか深い傷として残っているようで、様々な角度から「善人であろうとして、善人になれなかった」自分が映し出されている。
そこには、厳格な父への反発と、それでも愛していたいという葛藤があり、それは壮年期にはいってからも変わらずに葛藤として持ち続けていたのだろう。どのようにして、父の存在を乗り越えていくのか、それがこの映画のひとつのテーマである。

さらにこの二つの物語(主に幼少期の物語なのだけれど)の合間に何度も、宇宙の形成から地球の形成へ、そして生命の誕生へと続く、自然現象を映しだした無言の映像が現れる。
その意味は明白である。単純に過去から現在へ連なる命の系譜(ツリー)が映し出されているのだろう。
生命の形成から現在の自分の置かれた立場まで、それはすべて神の手のひらの中にある、とでもいうような、そして、宇宙や地球の歴史と、名もなき個人の歴史の大きさには何の差も無い、ということを言っているのだろう。そこには「意識の流れ」が持つ特有の無作為抽出が行われていない分、やや短絡的な印象を与えるし、若干、中心の物語との関連が強引な感はある。しかし、それでも物語を分かり易くする仕掛けとしては良いと思った。

結局は、壮年期に入った長男は自分の過去を思い起こしながら、父への違和感を克服してゆくプロセスが描かれているので、神と自分との関係性というものは描かれていない。しかし、描かれていないからこそ描かれている、と言うと意味が分からないが、何事かの葛藤があり、それをどう越えてゆくのかということが神が与えた試練であり、それが人生というものだと暗に言っているのだと思う。
つまり最初から最後まで一貫してヨブ記に暗示された人生の葛藤とその克服が、生命の創世と共に描かれているわけで、とてもシンプルな構造になっている。
しかし、極めて説明が少なく、セリフも少ない。そして前述したようにナレーションで語られることと実際の映像の差。さらに意識の流れに支配された時系列の無い文脈に、見る人によっては混乱するかもしれない。その難解さも、何か人生の持つ混沌や困難さのようで、むしろ正し選択のように思える。
映画は必ずしも分かり易く物事を伝える手段では無い。場合によっては、遠回りを重ねて結論に近づいてゆく。その緩やかなスピードが心地よく、久々に良い映画を見た。

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映画077 バベットの晩餐会

『バベットの晩餐会』 1987年 ガブリエル・アクセル

デンマークの辺鄙な漁村に自らキリスト教の宗派を作った男と彼の美しい二人の娘、マーチーネとフィリパが住んでいた。美しい彼女たちに言いよる男はたくさんいたけれど、猛烈な誘いを交わしながら二人は父の仕事を手伝いながら厳格な宗教的生活を守りぬいてゆく。
やがて父が亡くなり、二人は父からの仕事を受け継いで村の人々の心のより所となりながら齢を重ねていたある日、突然、一人の女性が遠い昔フィリパに想いを寄せた歌手からの紹介状を携えて彼女たちを訪れる。その女性はバベットという名でフランスから亡命してきたのだという。そして、この小さな村で匿ってもらえなければバベットに残された道は死のみであると言う。
二人は戸惑いながらも彼女を受け入れ、バベットは料理人として住み込むことになった。

それから長い歳月が流れ、バベットは村の中にも溶け込んで、何よりもその質素でありながら素晴らしい料理の数々に皆が喜び、いつしかバベットは二人にとっても大きな存在となっていた。やがてバベットの元に朗報が飛び込む。毎年、パリに住む友人に買ってもらっていた宝くじが当たり、バベットは1万フラン手に入れることになったという。
それは、年老いてきたマーチーネとフェリパが父親の生誕100年祭をささやかに村人たちと祝うために晩餐会の構想を練っていた矢先であり、バベットはその料理を作らせて欲しいと願い出る。
姉妹たちは、質素な料理で簡単に済ました方が良いと考えるもバベットの強い意志と彼女からの初めての願いに、晩餐会の料理をバベットに任せることを決め、バベットは喜びながらフランスからの食材を手に入れる為に休暇を取る。
バベットがいない間、大金を手に入れた彼女はもうこの村には戻って来ないのではないと姉妹は不安なときを過ごすけれど、しばらくして豪勢な食材とワインを携えたバベットが戻ってくると、今度はあまりの贅沢さに、これは悪魔の誘惑なのではないかと姉妹は不安に陥ってゆく。何の根拠も無く、姉妹はバベットが料理に毒を入れて村人を皆殺しにするような気がしたり、何か天罰がくだるのではないかと恐れるけれど、結局はもしもそれが運命ならば甘んじて受け入れることを決意する。そしてその意を村人たちにも伝えて、決して料理を味わわずに他のことを考えながら晩餐会をしよう、ということになる。
そして晩餐会の夜、昔マーチーネに想いを寄せていた軍人ローレンスもその席に加わり、遂に食事が始まる。次々に運ばれてくる豪華な料理に舌鼓を打つローレンスと、押し黙る村人たち。それでも料理は次々と進み、いつしか年を重ねて意固地になってお互いにいがみ合いを続けていた村人の心もうちとけてゆく。おいしい料理と完璧なワイン。食事が終わりに差し掛かるとローレンスが思い出話をする。
将軍へ昇格するときのお祝いで連れていってもらったパリの最高級レストランで今日と同じような料理を食べたことがあり、そして、そのシェフは驚いたことに女性だったというのだ。
もちろん皆、それがバベットのことであると気づくけれど、何も言わずに晩餐会は終わる。
村人たちは幸せな気持ちで家路につき、残された姉妹はバベットに感謝の言葉を告げ、そして、同時にバベットにフランスに帰るつもりなことは分かっていると言う。
しかしバベットはもうフランスに帰るつもりはないと言う。何故ならば宝くじのお金1万フランはすべて食材に使ってしまったからお金が無いからだと言い、姉妹はバベットの真心に心打たれる。

この映画を撮ったガブリエル・アクセル監督は、正直他の作品は下世話で何とも言い難いのだけれど、この『バベットの晩餐会』に描かれる抑圧された静かな世界はとても美しい。
もちろんこの映画の主題はキリスト教的な献身である。しかしキリスト教の中にもたくさんの思想がある。姉妹が従事しているのはデンマークの片田舎の一つの村の中だけで信仰されているプロテスタントの小さな宗派であり、バベットはフランスの厳格なカトリック信仰に生きてきた。
姉妹からすれば、カトリック信仰に対して、一言には言い表せない複雑な感情を抱いていたに違いないと思う。カトリックは一つの権威である。バベットが晩餐会の食事を盛大なものにすると決めた際に疑念が湧くことも理解し得ないことではない。隔絶された一つの宗派が他のキリスト教信仰によって、何かを壊されてしまうことを恐れたのだろう。
結局は姉妹の心配も徒労に終わり、むしろバベットが何も語らずに最高の晩餐という形で自らの感謝を見せたことで姉妹とバベットはキリスト教的な愛で結ばれたのだろう。
過去を語らずに頑なに生きたバベットの生き方は恐ろしく強い。しかし、そんな彼女に疑念を抱いた姉妹の信仰は一見バベットに比べて弱いようにも見える。しかし、それは小さなプロテスタントの一派からしてみれば至極当然の疑念であり、必ずしも姉妹が弱い人間であるわけではなく、むしろ村の信仰を守るという責任感の強さからであると思う。違う強さを持った人間が打ち解けあい、最後には分かりあう。

しかし、やはり一番重要なのはバベットの献身で、彼女は自分の持つ財産をすべて投げうって、会ったことの無い姉妹の父親の聖誕祭に心を尽くした料理を提供する。つまり彼女の行為は、姉妹への感謝であると共に、持っているものをすべて投げうつ愛である。
別にキリスト教的な生き方を賛美するわけではないけれど、自らの持つすべてを投げうって誰かのために尽くすことがどんなに大変なことであるか考えると、何かこの映画は切実に胸に迫ってくる。一体何が正しい生き方なのか、それは誰にも分からないけれど、バベットの献身はとても強く美しい生き方だと思う。
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映画073 スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド

『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』 2006年 ソフィー・ファインズ

スラヴォイ・ジジェクと言えば、ポスト構造主義的な心理学者で、哲学者と呼ばれているけれども、
僕にとっては思想家。僕はヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」以降哲学の有効性というものは失われつつあって、20世紀以降の「哲学」は本来哲学が主としていた根源的な命題ではなく、細部をつつくような形になっているように思える。デリダにしてもバルトにしてもやはり語っているのは思想だと思う。話はそれたけれど、ジジェクは昔から様々な著作でヒッチコックやリンチを語っていたけれども、遂に映像として映画を語った。
もちろん、ジジェク自身がびっくりするほどの早口で2時間半、映画についてをまくし立てる内容なのだけれど、彼の偏愛する映画は主にハリウッド映画、アメリカ映画で、その大部分がヒッチコックとリンチに言及されている。

とやかく全部の内容についていうわけではないが、すべての映画において彼は、映画全体の物語について語ることは一切なく、1シーンにおける人物と事象の心理学的関係性にばかり言及する。
例を挙げればヒッチコックの「鳥」における部屋への鳥の襲撃はマザーコンプレックスの隠喩であると言う。
つまり鳥が人を襲うという表層として画面に表れているものが本質では無く、その後ろ側にあるもの(主人公の母親に対するコンプレックスが鳥の形を取って襲うこと)にこそ本当の意味がある、という。
それでは、物語自体には何ら意味が無くなってしまい、映画が物語を持つ意味が何ら失われてしまい、そして、あえて隠喩として何かを表現しなければならない理由というものが全く見当たらない。
しかも見る人間がジジェクの解説を聞かなければ分からないような意味にこそ本当の意味があるとすれば、人々は何の意味も分からないまま映画を見ているという状況に陥っていることになってしまう。
それではますます映画の物語の意味は消失してしまう。表層の意味が消失してしまう。
表層を無視してその裏側だけを読み取ろうとする。
そこがポスト構造主義と言われる所以である。
もちろんジジェクはインテリで頭も良く、映画には物語があり表層には意味があることを分かっている。分かった上で、あえて物語の所在を無視して、1つのシーンや出来事の中に隠された意味だけに焦点を当てているのだろう。
そこ正に「倒錯的」であり、細部を見ることによってそこに隠された意味を知り、それが映画全体を貫く物語を知る手がかりにしてゆく。
つまり、表層の物語だけを追うことと、細部に隠された意味をを追いながら物語を見ることでは、その表層にある物語の意味合いが変わってくる。俗に言う「裏読み」というか、簡単に言えば、ヱヴァンゲリヲンの意味の解読に人々が躍起になることと同じなのだと思う。その際に細部の意味を突き詰めていくことで表層の物語が忘れ去られてゆくということは一切無い。ただ、表層の意味合いが変わってゆくのだ。
その意味では、ジジェクのアプローチの意味は分かる。ラカンでもドゥルーズでもいいのだけれど、それは一つのアプローチであると思う。
しかし表層を追うことと細部を見ることには大きな違いがある。
特にジジェクのアプローチでは、映画の中に現れる人物を現実の人物のテンプレートとして捕える必要があるということで、映画の人物の思うこと、置かれている立場を実際世界から置換して考えて無ければならない。
しかし、その一つの人間の「型」として強烈な個性を打ち出す人物たち(なぜならば強調された人物像でなければ「物語=ロマン」を作りえないから)は、現実世界へと本当に還元できるのだろうか?
僕にはそれは少し無理があるように思える。

故に、私たちには、ジジェク的な細部の心理描写から物語を捉えて現実世界へと還元する見方と、映画の表層だけを捉えて映画を映画として完結させる見方の二つがある。
僕は、映画の中の人物は映画の中だけに生き、その画面に捕えられた人生以外には何も無いのだと思っている。
つまり、僕はジジェクのアプローチを完全に否定する。
否定するけれど、彼のやり方には有効性はあるのだと思う。
ただ僕にはあまり必要のないことで、僕はただ映画を物語として、表層だけを捉えていきたい。

なぜ、ジジェクはこんなにも心理学的な意味をこねくりまわして映画を語るのか。
僕には、何となくそこには、ジジェクがインテリで聡明にも関わらずハリウッド映画のような大衆映画を愛している、ということのジレンマがあるように思えてならない。
そして、映画というものにどこか真の芸術には届かない大衆性が常に付きまとっていることを何となく感じているからではないかと思う。
そんな映画が大好きだけれども、インテリを自負する自分が理由もなくただ単に「映画が大好きです」というのが恥ずかしい、という、言い訳のための映画なのだろう。


―映画は究極の倒錯的表現である。映画は我々が欲情するものを与えはしない。何に欲情すべきかを教えるのだ。−スラヴォイ・ジジェク


ジジェクの発言、そしてこの映画の存在そのものがポスト構造主義的で、僕は批判的ではあるけれども、その倒錯には価値はあるのだと思う。
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映画072 黒い眼のオペラ

『黒い眼のオペラ』 2006年 ツァイ・ミンリャン

アメリカに住んでいたとき、ツァイ・ミンリャン監督作品の集中上映で、一度だけ監督と話をしたことがある。映画作りのコンセプト、都会の中に生きる人々の時に不確かな交流や時間の流れ、をその時は『ふたつの時、ふたりの時間』を題材に話していたのが印象的だった。
僕が初めて見たツァイ・ミンリャンの映画は『河』で、冒頭から最後、都会の中で生きる人間の切ない運命に至るまで、本当に大好きな雰囲気に満たされていて、それ以来、ツァイ・ミンリャン監督の作品はすべて見ている。そしていつも彼の作品が常にギリギリの危うさと美しさを持っているのはなぜなのだろう、と思う。答えは彼の映画作りの苦悩にあるのかもしれない。ツァイ・ミンリャンは、かなり長い間、講演会を開いて資金を捻出して、作品を撮り続けていた。他の監督には無いゼロからの映画作り、自分の人生すべてを映画につぎ込んでいるその姿勢が次々に傑作を生み出す要因なのかもしれない。(最近では台北にコーヒー屋をオープンして、コーヒーの淹れ方と映画の見方をレクチャーしつつ生計を立てているらしい。)

ツァイ・ミンリャン作品はどの作品でも共通して、台詞が少なく、都会の中の異質な空間に舞台をおく。台詞の少なさは物語の核心が台詞にあるのではなく、人間の存在そのものに意味を見出しているように思え、沈黙がより強固な言語として響いてくる。そして、作りだされる異質な空間(時にそれは『Hole』に見られる突然アパートメントの天井にあいた穴であり、『落日』に現れる映画館の中にある迷路のような通路である)は、それ自体が日常生活に現れる奇異なものへの物理的な隠喩というよりは、それ自体が放つイマジネイティブな美しさ、それそのものの状況に美を感じているからに他ならない。つまり、アパートメントに穴が空き、『黒い眼のオペラ』では工事途中のビルディングは水に満たされていていること、それ自体にトァイ・ミンリャンの思う美しさがあ、そこに共感できる人間にとってはこの上もない美しさになり得る。
特に、彼の作品にはしばしば本来存在し得ない場所にそこに水があり、何の説明も無く登場人物たちはその水と共存している。その湿度の高い映像の持つ異質な雰囲気は、なぜかリアリティを持って実感として浮き上がってくる。

『黒い眼のオペラ』では、ツァイ・ミンリャン映画のアイコン、リー・カンションが、寝たきりの男と、路地裏で暴行を受け見知らぬ男に助けられて介護を受ける二役を演じている。助けた男はどうやらリー・カンションに魅かれているらしい。そして、回復したリー・カンションは飲食店で働く女と親しくなり、恋に落ちる。リ・カンションを愛する二人は互いに存在を知らぬまま、愛す。そして、その二つの愛の挟間にいるリー・カンションは穏やかにその愛を受け入れ、ラストシーンでは、水の上に幻想的に流れるベッドの上に3人が横たわっている。
言葉で説明すれば、何の問題も発生しなかった三角関係の話なのだけれど、一つ一つのシーンの美しい構図。言うなれば縦の構図を見事に使いながら、美しい世界を作り上げている。そして、沈黙に満たされた映画には、2時間余りある時間、それ自体が物語である。言葉で説明出来ない何かが必要であるからこそある時間。静かに流れてゆく映画の中の時間、その尺度が物語なのだと思う。一人の男が怪我を負い、そこから回復し、他者からの愛を知る。それが少ない言葉の中で語られるからこそ、時間に意味があり、その長さがあるからこそ、心に響いてくるのだと思う。
そして、もう一人の主人公、寝たきりのままの男。彼はただ眼だけを動かし、そこに言葉は無い。ただ、自分の見える範囲内の世界だけを見つめながら横たわっている。彼の存在こそが映画の核心なのだと思う。
つまり、人と人が分かりあう為に必要なのは言葉では無く、ただ真っ直ぐに見つめることなのだ。
彼の存在があるからこそ、3人の恋の物語は形を成し、無言の中で綴られる愛に意味が生まれる。
その幸せな結末には、葛藤や矛盾は無く、ただ安らぎがあるのは、黒い眼でまっすぐ見つめた先には、自分対相手、というただ一つの風景しか存在しないからなのだろう。
そして、それを見る僕も、同じような安らぎを感じる。

ツァイ・ミンリャン監督は、言葉以外で物語を綴れる稀有な監督であり、彼の描き出す都会の中の幻想的な神話は、心に深い思いを想起させる。
それはどの映画を見ても思うことだけれど、この『黒い眼のオペラ』において、その沈黙と魅惑的な空間の演出は完璧に近い形で完成したように思える。現在生きている監督の中で、僕にとって一番信頼できる監督は、トァイ・ミンリャンだと思う。

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映画071 オリエント急行殺人事件

『オリエント急行殺人事件』 1974年 シドニー・ルメット

ヴァン・ダイクやディクスン・カー、エラリー・クィーンのミステリ小説はそれはそれで楽しいのだけれど、どこか予想外の犯人の為に作られた過去や、大胆なトリックの為だけに書かれた小説だという気がしてしまう。本格派と呼ばれる作家たちの犯人当てやトリックへの傾倒は、物語、という本来なければいけないドラマを人間の内側ではなく外的な部分に求めすぎているような気がして、個人的にはあまり面白いとは思わない。しかし、アガサ・クリスティーの小説には犯人やトリックのさらに向こう側に人間の悲劇性や喜劇性が描かれていて、結末が分かっていてもそれでも読ませる力があるし、読後には余韻が残る。
つまり、彼女の小説に描かれているものは人間の内面で、犯罪は人間を描く為の手段だと僕は思っている。

アガサ・クリスティ―の代表作の一つである『オリエント急行殺人事件』。この結末は「そして誰もいなくなった」や「アクロイド殺し」と並んで有名である。誰もが知っているであろうし、この結末は、この小説以降誰も使うことが許されないのではないかと思う。
シドニー・ルメット監督が1974年に映画化した際、当然原作は有名であり、結末では無く、映画全体の構成で魅せなければいけなかったと思う。
その為にルメット監督が選んだのは、豪華な俳優陣、そして、原作通りの異なる階級、異なる国籍の人々が話す英語。さらには、撮影当時すでに走っていなかったオリエント急行を再現したセット。どこをとっても美しく、たくさんの登場人物たちを分かり易く配置し、エンディングまでもってゆくルメット監督の手腕は、傑作『十二人の怒れる男』を作り上げた密室群像劇の見事さを思えば納得できる。

『オリエント急行殺人事件』は、様々な乗客が乗り合わせたイスタンブールからパリへと向かう長距離列車の中で殺人事件が発生し、そこに乗り合わせたエルキュール・ポワロ(アルバート・フィニー)が、事件解決へと乗り出す。
冒頭、様々な国籍や階級の乗客たちがオリエント急行へ乗り込むシーン。そこには台詞の無く、ただ人々が乗り込んでゆくのだけれど、その歩き方や洋服だけで、彼らの人格が見えるような気さえする。しかもその乗客たちが、イングリット・バーグマン、ショーン・コネリー、アンソニー・パーキンス、マイケル・ヨーク、ローレン・バコール、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、ウェンディ・ヒラー他と、とにかく目にも鮮やかな俳優陣でこの中にこれから起きる殺人事件の被害者と犯人がいる、ということを観客に印象づけてゆく。

その彼らが乗り込むオリエント急行。美しいセットの中で一通りの顔見せが終われば、殺人が起こり、ポワロが捜査に乗り出す。
静かに、一人ひとりを尋問してゆく。このシーンは鮮やかに処理され、次第に浮きあがってゆく人間関係が、原作では複雑であった部分を忠実に、しかし単純化して分かり易く提示される。さらに、ポワロがなぜそう思うに至ったのか、という部分は極力省き、観客が知っているであろう物語の結末へ向かう為に必要な最小限の情報のみを整理して並べて、映画は進む。さらに彼らが話す異なるアクセントや文法で話される英語は、それを聞いているだけでも楽しくなるし、忠実に映画化されていることによって生み出されるリアリティはこの上も無い。
白眉は、映画のエンディングで、事件の解決した後、登場人物たちが一人ひとり、固定されたカメラの前で挨拶をして去ってゆく。そのシーンの美しさは、冒頭で列車に乗り込むシーンと対になって、彼らの心情を映し出しているようで、感動すらしてしまう。
殺人事件の後、感動する、というのもどうかと思うけれど、それほど深く余韻のあるシーンで、ルメット監督の作品の中でも最も印象深いシーンの一つだと、僕は思っている。
つまり、この映画は単に犯人を探す映画では無く、それ以上になぜそのような事件が起きてしまったのか、そして人間の業や悲しみを浮かび上がらせ、人間というものが如何に儚く脆く、それ故に愛すべきものなのか、ということを語っているように思う。だからこそ、深く心に残る映画なのだと思う。

80年代以降のルメット監督は正直駄作の連続であることは否めない。しかし、1957年にハリウッド出身では無い監督としてデビュー作『十二人の怒れる男』を発表して以降、『セルピコ』や『狼たちの午後』『ネットワーク』など傑作を連発した70年代を思えば、それでも見続けていきたい監督の一人で、2007年の『その土曜日、7時58分』で見せた久々の会心の出来に少し安心して、また鮮やかな人間ドラマを撮ってくれるのではないか、と期待しています。
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映画070 ノン、あるいは支配の空しい栄光

『ノン、あるいは支配の空しい栄光』 1990年 マノエル・ド・オリヴェイラ

1970年代、アフリカの植民地戦争に参加している兵士たちがいる。しかし、輸送される車の上で、戦争への不満をもらす兵士たち。その中にいた一人の男がポルトガルの過去の戦争を語り始める。
それによれば、ポルトガル建国以前、ルシタニアと呼ばれた頃のローマ軍との戦いを皮切りに、十字軍時代、アルカセル・キビルでの戦いなど、次々と語られる戦争。その中で、常に繰り返されるのは、戦争の無益さであり、哀しみであり、そのやり場の無い無常感ばかりである。
最後には、植民地戦争に参加している兵士たちが傷を負い、眠るように死んでいく語り部の男がいる。
ここに、一つの結論がある。題名にあるように常に戦争は「ノン」である、ということ。それは、この映画の一つの主眼であると思う。
しかし、さらにオリヴェイラ監督は、さらに奥へと進んでいっているように思える。

過去の戦争を回顧する場面では、どことなく虚構をみているようでリアリティが欠如し、現実感の無い鎧をつけた人間たちの戯曲のような台詞を喋る。それをみる観客の目にも、それが現実感を伴った過去の戦争である、とは到底映らないだろう。しかも1970年代を生きる兵士たちは過去の戦争のシーンの中で違う人物となって、ひとつひとつの戦争の主要な人物となって動き回る。
同じ人物が複数の別々の時代の人物を演じることによって、さらにリアリティは欠如してゆく。

さらに、途中、ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰到達を回顧する場面があり、それは、他の場面と比べてもより神話的世界であり、天使たちに導かれて休息をするガマが描かれている。
その場面の意味を問われた語り部は「現実とは、神話的現実に他ならない」と答える。
これは一体どういうことなのだろうか。
我々が現実として捕えていること、自分が直接見たもの、体験したものについては現実として明確に捕えることが可能かもしれない。しかし、「歴史」として物語られるもの、それは、自らが体験したものではなく、それが過去へと遡れば遡ってゆくほど「事実」として語られている「歴史」は認識として非常に曖昧である。それは、お伽話や神話と同じ程度に、私たちからみたときには不確かな事実でしかない。
それが「現実とは、神話的現実に他ならない」ということなのだと思う。
それを思えば、オリヴェイラ監督が作り出した戯曲のような戦争の場面も、つまりは神話的なものであり、それはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰到達からインド航路発見の過程で天使に導かれたことと同じ程度の「事実」なのだ。

一つひとつの戦争の羅列を個別のものとして捕えた場合、同じような悲劇が無意味に繰り返されてきたという悲劇史に見えるかもしれない。しかし、歴史とは常に平和な時代は語られることが少なく、戦争が歴史の主な部分であり、そこにひとつの神話的挿話があることによって、レヴィ=ストロースの構造主義的な歴史認識が現れてくる。
歴史には、必ずしも意識されているわけではないけれど、顕在的な現象として何が可能であるかが規定された範囲内の出来事のみしか起こりえないということが書かれている。つまり、事実上、歴史には人間が考えつく範囲を超えたものは絶対に存在し得ないということであり、それはつまり常に「事実とは神話的な事実」であり続けてゆく。

この映画の中で語られる「神話的事実」としての歴史、そしてそれを「神話的事実」として認識するということは歴史を認識するための最良の手段であり、歴史を認識するということは未来を知るということでもある。なぜならば、私たちは思いつく範囲を超える出来事には遭遇し得ないし、これから先も思いつく事柄以上の出来事には遭遇しないということであるが故に、過去を知ることは未来を知ることと同義である。起きた出来事を主体として見過ぎてはいけない。悲劇を繰り返してはいけない、と訴えているのではなく、それは当然のこととして起きた事柄の間に何があるのかを捉える試み、さらにそれによって未来を見つめているオリヴェイラの視線があるように思える。歴史を語るときの我々が見つめるべきものがどこにあるのか、それをこの映画が強く語りかけてきているように思えてならない。
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映画069 群衆

『群衆』 1928年 キング・ヴィダー

サイレント映画に素晴らしい作品を作り、トーキー全盛時代になっても美しい人間ドラマを作り続けることに終始したキング・ヴィダー監督。
大恐慌時代に自主制作した『麦秋』の恐ろしく緻密な構成や、社会の中で大きな注目を受けることのない小市民に光を当てた映画の数々は、無声映画であったとしても胸に迫ってくる。

現在、ほとんどの無声映画には後から音楽がつけられていて、本来、ただただ続く映像に時折挿入される必要最低限の台詞のカットだけで映画は作られている。そして、問題なのが後付けされた音楽があまり良くない、という点で、あまりにも音楽が氾濫しすぎている。通常の映画の場合、もしも6〜7割のシーンに音楽がついている場合、僕には少しうるさく聞こえる。もう少し音楽の無い時間があっていいと思う。しかし、この後付けされた音楽は、無声映画の場合、ほとんどすべてのシーンで流れている。多分、9割以上のシーンに流れているのではないかと思うので、大体は音楽を消して見てしまう。
無声映画に美しい音楽を、控え目に乗せるような仕事があったらいいな、と個人的には思っているけれど、それはいいとして、1928年に制作されたキング・ヴィダー監督の『群衆』は、名も無い小市民を主人公に、誰にでも訪れかねない人生の事件を描く。

アメリカの一般家庭にあるように、子供の頃は「末は大統領」と言われながら社会へと飛び出してゆく。大都会で就職し、恋に落ち結婚する。
幸せな家庭と親戚との微妙な関係。子供が生まれ、そして、事故で子供を失い、自暴自棄で仕事をも失う。突然、人生のどん底を味わった主人公は失意の中、もう一度人生を生きてみよう、と思う。
言葉にしてしまえば、単純すぎるほど単純である。しかし、そこにある一つひとつの出来事は誰にでも起き得る出来事であり、生きてゆくということは、誰に出も起こり得る出来事の積み重ねなのかもしれないと思う。
そして、ヴィダー監督は、本当の人生であるならばもう少しゆっくりと進むであろう事柄が一つのシークエンスの中にぎゅっと詰め込む。例えば、大都会に出てきて働き始めた主人公が結婚に至るシーンはたった1日の中に描かれ、人生の一つの頂点であるかもしれない幸せの後には娘の事故死が訪れる。ほとんどすべてのシークエンスで、陰から陽へ、或いは陽から陰へ、と1日の中で主人公を取り巻く状況は目まぐるしく変化してゆく。それは、誰にでも起こり得る出来事であると言うのと同時に、フィクションという枠組みを持って、物語へと昇華しているように思う。
もしも、何気ない日常がただ流れ続けていくのであれば、その中にドラマを見出すことは難しくなるかもしれない。しかし、すべてのコントラストが劇的であり、その劇的な中にドラマは生まれる。

たくさんの出来事に一喜一憂し生きてゆく名もなき人である主人公。彼は初めてのデートでバスから見えるチラシを配るサンドイッチマンを馬鹿にする。あんな人生は悲しいと思う。しかし、たくさんの出来事を経た主人公は、最終的にはサンドイッチマンの仕事を得て、家族を支えてゆくことになる。しかし、そこには恥じらいはなく、ただ喜びがあった。
バスから見下ろしたサンドイッチマンは、他人から見れば人生に負けた男に見えるかもしれないけれど、彼には彼の人生があり、その裏側には他人には見えない物語があるのかもしれない。
しかし、それを何も知らない側から見れば、ただのかわいそうな人生であり、ああはなりたくない、という蔑みの対象でしか無い。それもまた人間の心理であると思う。見ず知らずの人間に対して、人は冷酷になれる。

映画のラストシーンでは、失意から立ち上がった主人公と妻、そして子供がそろって劇場の椅子に腰かけている。そして、舞台を見つめながら大笑いしている。段々と引くカメラ。同じように爆笑の渦に包まれた観客たちの一部へと化してゆく主人公。彼もまた、名もなき群衆の一部である。
そして、同じように笑う人々も群衆の一部であり、一人ひとりの人生にはまた同じだけの物語があるのだと思う。

名もなき人々に光をあてた『群衆』は、美しく、そして悲しい。決して憧れの対象になるような、夢を与えてくれる映画ではないけれど、些細な日常の中に生き、幸せを感じる瞬間の大切さを思った。
そして、何かを成すことに偉大さと共に、ただ生き抜くということの偉大さも同時に感じる。この映画が公開された当初は、大恐慌の影響や職を放棄する主人公の姿に観客の共感は得られなかったけれど、それはそこに映し出された主人公が当時の群衆であり、そしてまた観客も当時の群衆であったからなのかもしれない。


娘を事故で失った直後に、印象的な台詞がある。

The croud laughs with you always, but it will cry with you for only a day.
(群衆は常にあなたを笑っている。けれど、たった一日だけ彼らはあなたの為に涙を流す。)

それは、群衆、言いかえれば大衆の心理であるかもしれない。
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映画066 グラン・トリノ

『グラン・トリノ』 2008年 クリント・イーストウッド

丁寧に作られていないような印象が拭えず、僕は最近の映画はあまり見ない。新しい作品が生まれれば生まれるほど、昔にあった何かの焼き直しばかりな気がしてしまう。奇をてらった映像や「」付の現代性ばかりが映し出されて、映画が芸術だとすれば、芸術が持つ普遍性という価値が希薄になりがちだと感じる。今を映しだす鏡としての映画も良いけれども、僕にとって芸術の価値とは、良い映画か悪い映画かということよりも、作品の中に新しい「何か」があるかどうかである。その「何か」が結果として価値のあるものかどうかは後の時代にならなければ分からない。しかし、その「何か」すらなければ、いつまでたっても価値が生まれないように思う。そして、芸としての映画の価値とは、その新しい「何か」を人間性の中に描きだせるかどうか、であると思う。

クリント・イーストウッドと言えば、ダーティー・ハリーだし、マカロニ・ウェスタンだし、子供のころからハリウッドを代表する俳優であり、それは芸術では無く、ただのエンターテイメントだと思っていた。イーストウッドの初期の監督作品も今見直せば、とても印象深いものも多いけれど、初めてみたときには俳優が撮った映画という印象が拭えなかった。しかし、僕がアメリカにいるとき、学校のすぐそばで撮影をしていた『ミスティック・リバー』を見に行ってその印象が突然に変わった。クリント・イーストウッドは稀代のストーリーテラーであり、粗筋だけ聞けば何とも無い話に思えるものが、映画を見始めれば、印象が変わる。全く予測し得ないほどに物語が動き出してゆく。
それは『ミリオンダラー・ベイビー』でも『チェンジリング』でも変わらなかった。端的に言えばボクシングの名コーチ―と一人の女性の成長物語と言えなくも無い『ミリオンダラー・ベイビー』。しかし、実際にはそんな生易しい物語では無い。映画を見終えた後に残る深く重苦しい沈黙は、この映画からしか得られないほど深く心に残る。但し、僕はこの映画を尊厳死の物語だとはあまり思えない。寧ろ、アンチヒーロー像であると思う。

それが『グラン・トリノ』ではより明確に描かれている。
『グラン・トリノ』はイーストウッド自身が明言するように、本人の主演はこの作品が最後だと言う。しかも役どころが一昔前には多かったであろう典型的なアメリカの白人男ウォルト・コワルスキーで、アメリカ製の名車グラン・トリノを大切にしている。他の人種と自分たちは違うという意識を持っている。白人地区であったはずの自分の家の周りにいつの間にかアジア人が増えたことで、心が落ち着かない。しかし自分の車の窃盗未遂事件をきっかけに、次第に隣に住むアジア人の少年タオとの交流を通して、心を開くようになってゆく。…、というのが一般的に言えば粗筋なのだと思う。
しかし、それは全体の一部に過ぎない。隣人の少年とその姉は、彼らと同じアジア人の不良たちから窃盗未遂事件に端を発し、仲間に入ることを強要され始める。それを断ると、今度は標的にされてしまう。無残ないじめが続き、姉はレイプされる。家族という関係性がうまくいっていなかったウォルトは、彼らとの交流を通して、そこに家族以上の繋がりを感じてゆく。その頃には、ウォルトは人種では無く、人間同士としての友情を彼らに感じ、彼らの為に命すら投げうつことすら覚悟している。

ここに描かれるものは、何でもできるスーパーヒーローでも無ければ、初めから悪の匂いのするダークなヒーロー像でも無い。一人の弱い人間が立ち上がり、単なる一介の市民でしかない男が、正義の為に悪を殺す。しかも、その正義が自分の大切な人々を守るためだけの正義で、彼らを守るということの正当性以外を無視して、悪に向かう。決してヒーロー映画に描かれるような無条件の正義漢では無く、心の弱い人間の大きな決心の結果としての正義である。だから、決して格好の良い姿では無い。強いわけでも無い。たった一人でタオたちを攻め続けるグループのアジトへと向かい、そして、銃弾を浴び続けて、死ぬ。ただの一撃も相手に与えること無く、死ぬ。
しかし、そのグループは即座に逮捕され、悲しみに暮れるタオと姉を残して、映画は終わってゆく。

この結末には、何か爽快感があり、見続けてきた映画の最後に、無防備な主人公が無残に殺されたのにも関わらず、彼の人生は幸せであったと思える。アンハッピーエンドであるはずなのに、殺されることで、今までの人生の頂点を極める正義を示したことが、ハッピーエンドなのかもしれない、と思う。
クリント・イーストウッドの近年の監督作品は、映画の中で起きていることの一見した意味と、一度考えたあとの意味が180度変わってゆく。殺されることの無残さや悲しみが一瞬訪れ、しかし再考すればその意味が変わる。
その鮮やかなストーリーテーリングと丁寧な映画作りは、現在生きているアメリカの映画監督の中では、最高監督の一人だと思う。
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映画064 カフカの「城」

『カフカの「城」』 1997年 ミヒャエル・ハネケ

フランツ・カフカの未完の大作「城」。カフカの描く不条理に満ちた世界。Kと呼ばれる測量技師が城の管轄下にある村に到着するところから物語は始まる。城での仕事に呼ばれたはずのK、しかし、一向に呼び出しも無く、ただ村で無為の日々を送る。さらに、Kを巡る村の人々や城の役人たちの間に繰り返される無益な問答。それがただひたすら続き、何も埒が明かないまま、物語は進む。そして、一つの転換を迎えたその途中で、小説は途切れるように終わっている。
それをハネケは、未完のまま、映画を終わらせている。
映画は終わりの気配も見せないままに、突然ぷっつりと終わり、フランツ・カフカの小説はここで終わっている、という短いテロップが現れる。
完成された映画が未完である、という思い切った映画化。しかし、それは、ハネケが『感情の氷河化』三部作で描き続けた「理由の欠如」の集大成なのだと思う。

『感情の氷河化』三部作は『セブンス・コンチネント』『ベニーズ・ビデオ』『71フラグメンツ』のハネケのデビューからの三作品を総じて言う。
僕は、初めて見た『セブンス・コンチネント』に衝撃を受けた。
一つの家族の何の繋がりも無い日常の断片を追い続ける物語。妻と夫はそれぞれ暗く、無感情な日々を送り、その娘は学校で嘘をつき続けている。
その三人には、ほとんど表情が無く、無機質な室内で、温かさの無い食事をする。
そして、彼らは心に抱えた死への憧憬の中、家族で自らの命を断つ。
『ベニーズ・ビデオ』では、突然、少年が見知らぬ少女を殺し、その場面を納めたビデオを見た親と少年の精神的な事件の解決を描く。
『71フラグメンツ』では、一人の少年が銀行強盗に押し入り、3人の命を奪うまでを、加害者、被害者の無作為的な日常ただ描き続けていく。

この『感情の氷河化』三部作の特徴、というか2000年以降のハネケはどこか分かり易い物語を紡ぎ始めたように思うけれど、それ以前の作品に共通しているものとして最大のものは、「理由の欠如」であると思う。なぜそのようなことが起きたのか、ということは何も描かれない。ただただ、何が起きたのか、ということだけが描かれている。そして、隅々までパンフォーカスの行き届いた映像は、人間の目が通常見るよりも正確にすべての部分にピントが合っている。それはどこかダグラス・サークの映像を思い起させるような配置や、陰影の強い撮影だけれども、サークのメロドラマにあるような明るい色には満ちていない。ハネケの作品は常に灰色の中に埋め込まれ、感情を排除したような表情の人々、金属の食器は磨きあげられ、部屋は奇麗に整頓されている生活感の無い生活。そして、そこに流れているラジオやテレビのニュース。しかし、登場人物たちは全く興味も無く、今世界で起きている出来事には全く無関心で生きていることが分かる。

さらにハネケの映画の特徴として、音楽が排除されていることがある。僕も映画音楽を作る立場として、音楽の重大さというものを常に感じているし、どんな映像にも一たび音楽が流れれば、そこには緩やかに一つの印象が出来上がる。同じ場面であっても違う音楽が付けられれば、それだけで違う印象=感情が画面に浮かび上がる。『感情の氷河化』と題された作品に音楽がほとんど無いことは至極当然のように思われる。生活音だけに支配された映像には感情を呼び起こすものがほとんど無く、さらに物語と言えるような物語も無い日常が続き、そして、ひとつの事件へと向かう。
それはすべて何が起きているか、ということだけが執拗に描かれている。

隅々まで完璧に構築されたハネケの世界。その三部作の後に作られたテレビ映画『カフカの「城」』は、不条理の中にある文芸作品的な重厚さを持って、ハネケが描いた世界をより純度の高い「理由の欠如」へと向かわせている。未完の作品である、ということはハネケにとって何の障害でも無い。むしろ、何が起きているのか、を描き続けるハネケにとって、理由や結末の無い世界こそ、最も描きたいものだったように思える。
しかし、それは『感情の氷河化』三部作があってこそ分かるものなのかもしれない。『カフカの「城」』だけを見れば、無秩序で不条理な世界が描かれ、そして結末の無い映画は、全く価値を見出せないかもしれない。
しかし前の三部作で描かれた世界を知れば、2000年以降のわかり易い作品へ向かう前のハネケが描いた理由の無い世界の結晶がそこにはある。ハネケの手法がカフカの世界観に見事に活かされた映像化は、素晴らしい成功を納めていると思う。
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映画063 セリーヌとジュリーは舟でゆく

『セリーヌとジュリーは舟でゆく』 1974年 ジャック・リヴェット

ジャック・リヴェット監督の作品の特徴と言えば、それは未だに守り続けている脚本の無い即興演技で、90年代以降のジャック・リヴェットの作品は重厚さを増し物語性を増していっても即興性は、変わることなく続けられている。
独自の世界観、空想と現実の挟間に揺らいだような物語、全く矛盾に満ちたまま進む映画は、決してその矛盾を肯定も否定もすること無く、ただそこに混然一体となって存在する。そして、何よりもジャック・リヴェットの作りだす映画には、明るさがある。決して難解なだけの作品に陥ることなく、そこで繰り広げられる物語は、まるで子供の遊びのように無邪気で馬鹿らしくて軽快で、次々と繰り出される矛盾は、子供が突然心変わりをしたような、ただそれだけのことなのだと思う。

特に70年代から80年代の作品に溢れる即興性やロマンティックな物語には心奪われるものがあって、やや哲学じみた、舞台と映画の関わり合いを描いた『彼女たちの舞台』や、謎の地図をもとに宝(らしきもの)を探す二人の女を描いた『北の橋』に見られるリヴェットのセンスは印象深い。
しかし、その中でも何と言ってもドゥルーズがジャック・タチの「ぼくの伯父さん」シリーズと共に、フランス最高のコメディ映画と評した『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は、二人の女が幻想の中に浮かび上がる家の中から少女を救いだす物語で、最初から最後まで、幻想と現実が入り乱れ続けている。

『北の橋』もそうだけれど、冒頭、主人公である女二人が出会う、その出会い方が全く尋常では無い。それはつまり物語的な出会いでは無い、ということで、普通であれば、如何に自然に物語が始まり如何に自然に見ず知らずの二人が出会うのか、ということを紡ぎあげてゆくのが物語的だと思うのだけれど、リヴェット監督の場合は、あまりにも不自然な出会い過ぎて、その不自然さにすら気がつかなくなってしまう。
一人の女が公園のベンチに座り、そこを通り過ぎる女が色々と物を落としてゆく。それを拾いながら追いかけるベンチに座っていた女。しかし、声をかけても振り向きもせずに進む。追われる女がホテルに入るとそれを見届けて帰るもう一人の女。そこからは二人の追いかけっこが始まり、そして、いつの間にか自然な成り行き(のような気がいつの間にかする)で一人の女の家にもう一人が住んでいる。
どういった経緯なのか、分かるようで分からない。物語世界が現実から離れすぎないように、人と人のコミュニケーションを繊細に描くことで、より真実味を出す、ということが物語の構築の方法だとすれば、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は全くその意味において物語は形成されていない。
しかし、見たこともないような出会い方ならば、あまりにも予期していない為に、そんな出会いもあるのかも、と思ってしまう。

さらに進む物語。突然、セリーヌとジュリーは入れ替わる。そして、元に戻る。一つの家へ行き、そこで口にしたキャンディーによって、夢なのか幻想なのか別の世界なのか、どこかにあるらしい家を訪れて、少女に出会う。
しかし、キャンディーを舐める度にその世界は微妙にずれながら、二人は交互に、その家で働く看護婦の役を演じている。
かといって、それが何なのか、というわけでは無い。ただ、入れ替わって、少女を救出しようとしているのだけれど、同じようなシーンが、次第に変化し続けている。
キャンディーを食べて見る幻想。そして、げらげら笑う二人の女。
これを麻薬の隠喩だという人もいる。矛盾だらけの世界を一つの解釈の中に押し込めようとすれば、それは麻薬による矛盾だらけの幻覚という説明で矛盾が解消されるかもしれない。しかし、僕はリヴェット監督の作りだす世界は、矛盾を矛盾のまま、ただそこにあるまま放っておけばいいのだと思う。それは、一度断言されたことが、何の説明も無く覆る世界。子供の無邪気な遊びなのだと思う。だから、そこにある矛盾は矛盾のままで良いのだと思う。

それよりも、ひとつひとつのシーンの中で繰り広げられる即興的で訳の分からないことの連続を楽しめば良い。分かりそうで分からない何かをもどかしく感じながら、その世界の中にいれば良いのだと思う。
そして、主要な登場人物たちが川に浮かべられたボートの上に微動だにせず立ち尽くす終わり近くのシーン。それはオブジェのように美しく、夢か幻想か、何か分からないままに進んだ物語が終わって、静止してしまったかのようで、印象深い。
さらに、映画の終わりには、二人は入れ替わり冒頭の出会いが再現されつつある。結局何だったのか…。リベット監督曰く「不思議の国のアリス」に着想を得た物語は、ルイス・キャロルの軽快さとナンセンスさを持ったおとぎ話なのだと思う。

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