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本018 パタゴニア

『パタゴニア』 ブルース・チャトウィン

いつの頃からか僕は紀行文というものが大好きになった。なぜ好きなのかはうまく説明できないけれど、美しい紀行文というものはガイドブックとは違って全然実用性が無いかもしれない代わりに、世界のどこかにある場所が著者の目を通して主観的な場所として描かれている。だから決して自分が同じ場所にいったとしても同じ感慨を持てるかどうかは分からない。しかしだからこそ、紀行文は、著者の言葉を通して現実の場所や現実の旅が、非現実的な幻視として現れてくる。少なくとも僕にとっては旅に行く代わりに読むわけでは無く、誰かの目を通してみた現実の非現実化、旅という言うなれば非日常の世界を描く著者の心象風景がそのままそこに現われている、その美しさに心が惹かれるから読んでいる。
松尾芭蕉の『奥の細道』や内田百里痢悵に捨鷦屐戰轡蝓璽此⊆禹核區紊痢悗澆覆み紀行』に現れる日本の風景はそれぞれの目を通して全く違う見え方をする。さらにイザベラ・バードやゴンチャロフの目で見た日本は、日本人の目とはまた違う。例え同じ場所であろうとも、旅の目的や旅人の想いによってすべてが違って見える。
世界中には旅行記がたくさんあり、ことイギリスでは古くから紀行文の傑作が生まれ続けている。詳しいことは篠田一士さんの著書『現代イギリス文学』の「紀行文について」、そして『現代イギリス文学ふたたび』の「新しい旅行記をもとめて」が完璧に近い解説をしているので、興味があれば僕が書いてることなんかよりもきっとたくさんのことを学べると思う。

それでも尚且つ『パタゴニア』について少し書きたい。ブルース・チャトウィンはイギリスの紀行文作家で第一作の『パタゴニア』で一躍脚光を浴びた。49歳という短い人生は波乱に満ちていて一言では言えないけれど、この第一作目には彼の想いが詰まっている。
僕がチャトウィンという作家を知ったのは『マイセン幻影』という映画の原作者だったからで、陶器に魅せられる主人公の狂気が強く印象に残った。それ以来チャトウィンという名前だけを忘れないままある日見つけた『パタゴニア』という紀行文。僕はこのときはじめて彼が小説家であり紀行文作家であることを知り、どちらかと言えば紀行文学での評価が高いことを知った。
彼はある日、パタゴニアへ旅に出る。明確な目的があるわけではなく、自分の祖父がパタゴニアで暮らした経験があるというその一点から旅に出る。別に自分のルーツを探る旅では無い。ただ彼はパタゴニアを旅する。
そして、そこで出会った人々との交流や、ある場所で起きた事件を回想したり、祖父の奇妙な物語を語る。その内容は一見支離滅裂で、単なる紀行文だと思って読めばあまりにも色々な話が挿入されすぎているために一体どこを旅しているのかさえ分からなくなってゆく。
しかし、それを紀行文では無くチャトウィンの目を通して見えたパタゴニア、そしてパタゴニアに立った彼自身から自然と湧き上がってきた事柄を並べていることに思い当たれば、何とも単純で必然性のある紀行文だということが分かる。
後年彼の著したもう一つの傑作紀行文『ソングライン』では、内容にもまとまりがあって何を言わんとしているかということがしっかりと把握できる。この素晴らしい作品も大好きなのだけれど、全く破綻したように自分の思いに彩られた荒削りな『パタゴニア』に魅力はあまりにも強烈でいつまでも忘れがたい。

彼の旅したパタゴニアは決して牧歌的な場所では無い。鉄道も無く、孤立無援で、もしかしたら出会うかもしれない誰かを頼りにひたすらと進む。辿りつけるかさえ分からない道を行く彼の凄まじさは、飾り気の無い文章に静かに押し込められている。しかし、チャトウィンはその凄まじさを微塵も感じさせないで、彼の想いを書き続けてゆく。絶対に壮絶な体験であるはずだと思う。それなのに彼の文章には何も後ろ向きなことも書かれていないし、弱音も無い。こんなにも強い男がいて、一人パタゴニアを歩いているのかと思うとそれだけで感動してしまう。行く先々で出会いがあり、どこへ向かうにも一筋縄でいかない出来事が起き、彼の先祖の幻想的な人生が挿入され、逃避行を繰り返した映画『明日に向かって撃て』で有名な銀行強盗ブッチとサンダンス・キッドの伝説とも事件ともつかない噂の検証がある。
実際に旅をする彼の頭の中で同時に進む他の出来事が、全部ごちゃまぜになって一度に放出されているから、読む側にもその力強さや信念が伝わってくる。
こんなにも胸に迫る紀行文は後にも先にもないのではないかと思う。

本017 ハックルベリイ・フィンの冒険

『ハックルベリイ・フィンの冒険』 マーク・トウェイン

日本ではマーク・トウェインの代表作として『トム・ソーヤの冒険』が第一に知られているように思う。しかし僕がアメリカにいたころ、皆が当然のように『ハックルベリイ・フィンの冒険』を代表作に推し、それどころかアメリカ文学史上最も重要な作品の一つだとも教わった。確かに「トム・ソーヤ」に比べて物語が大きい。原文で読めば、「ハックルベリイ・フィン」の方がより散文的で彼によって語られる一人称の物語が、三人称で書かれた「トム・ソーヤ」よりも深みがある。

というか、僕は『トム・ソーヤの冒険』が嫌いである。全体にトム・ソーヤの子供っぽさと自分に対する過信にどうも納得がいかない。マーク・トウェインが大人向けに書いたということが尚更その矛盾を増長しているように思えるのだ。
まず、トム・ソーヤは冒険と言いながらも実際には殆ど自分の住む小さな村から出ずに暮らしている。何か冒険めいたことがあるとすれば無人島での海賊ごっこやら夜の墓場への探検であって、実際夜の墓場に端を発した事件も起きるのだけれど、押し並べて事件はトム・ソーヤの中で誇張され、すべてが彼の読んだ冒険物語と関連付けて語られてゆく。つまり彼は現実には何も起きていない場所で「○○ごっこ」を繰り返しているか、さもなくば、現実に起きた出来事をどこかで読んだ「物語」に置き換えてしまうのだ。本来、現実に何か起きた場合には「物語」の中から学んだことを現実に変換して対応すべきであると思う。しかしトム・ソーヤは現実の出来事を「物語」の型に押し込めてしまうのである。彼にとって現実に起こるべきことは「物語」なのであって、実際そのせいで物事は手間取り、全く現実的な対処法というものを身に付けてゆかない。いつまでたっても、トム・ソーヤは内面的な成長もしないし、他人の知識しか持たずに自ら何かを考え出すという術を持っていないのだ。しかも最終的には反省もなく結末にはどこかトムの生き方が肯定されている感がある。
これを大人たちに読んでもらいたいと思うトウェインの言わんとすることが僕には良く分からない。決して反面教師としてトム・ソーヤが存在するわけではないと思うし、彼の他人の褌で相撲を取るような生き方がいくら少年であるとはいえ、肯定し得るとは考えづらい。
その意味で物語から得るものも少なく、彼の冒険のほとんども空想の産物であるが為に、何かこじんまりとしていて僕は好きになれない。

一方『ハックルベリイ・フィンの冒険』では文字通りハックが主人公であり、『トム・ソーヤの冒険』の終わりから始まっている。前作では副次的な存在であった彼が主役の座に躍り出て、黒人奴隷のジムと共に冒険に旅立つ。
こちらは、空想の冒険では無く、文字通り冒険であり、命をかけた逃避行である。そこで起きる出来事は現実であり、その場その場で自らが考え決断しなければいけない。トムのように「物語」の中ではこうだったからそうしなければいけない、というようなことではなく、始めて起きる出来事に最良の判断をし続けることによってのみしか生き延びる術が無い、という冒険である。
だから、そこにはリアリティがある。単なる子供の遊びでは無い現実があり、トムの空想の中の大人や海賊では無く、現実の大人たちや詐欺師たちがいる。彼らを向こうに回しジムと共に生き抜こうとする姿の勇ましさや聡明さは全く前作とは格が違う。
時にハックがキリスト教的な正義から外れる自分を戒め、そしてキリスト教を心の底から信じられない自分という存在も同時に知る。それは誰しもが成長過程で経験する葛藤であり、その葛藤の存在こそが成長の鍵となる。ハックは成長する。様々な苦難を乗り越えながら、自ら考えて行動する。だから彼は成長する。そしてハックの存在は常に生き生きとして輝いている。
それでこそ成長物語なのであって、何者にもなり切れないままのトム・ソーヤとは全く違う。さらに物語の終盤になって突然トム・ソーヤが登場する。黒人奴隷ジムの救出作戦なのだが、今まで自ら考えていたハックを一蹴し、トム・ソーヤは自分が読んだ物語の中から「脱走する囚人」像を作り上げ、その枠から外れた囚人を作ることを拒む。簡単に救出できるところを石板に詩を掘れだの、囚人は必ず動物を共にしているだの、回りくどい世界を作り上げて、ここでも現実を「物語」の中へと押し込めてゆく。
この終盤は読んでいても、何とももどかしくイライラしてしまうのだけれど、トム・ソーヤは自分のやったことに大満足である。そして、ハックは前例の無いことをやろうとする一種の先駆者として存在するのにも関わらず、「今までにそんなことをやった奴はいない。」という過去の物語主義者のトムに納得させられてしまう。
そのことに関してはトウェインの言わんとすることが良く分からないが、ハックの成長は完結し、その対立軸として平均的な少年像のトムがいると思えば、少しは納得がいく。
アメリカ社会において先駆者たることの重要性は高い。その思いが『ハックルベリイ・フィンの冒険』には込められていて、ハックが新しい事柄を開拓する者、そしてトムが古き良き伝統を守る者とみれば、この二つの冒険譚は対を成しているのだろう。どちらか一方を読むのではなく、これは二つで一つの話であり、二つの人間のある方の提示なのかもしれないが、僕にとってはハックは全く魅力的な存在で、その陰にトムという凡庸な少年がいるとしか思えないという意味でも『ハックルベリイ・フィンの冒険』がマーク・トウェインの代表作であるということに大きく頷いている。

本016 暗夜

『暗夜』 残雪

僕はあまり中国文学については詳しくないので、一体、残雪という作家が中国国内でどのような位置づけをされているのか分からないけれど、彼女の描く世界の曖昧さ、理由の無さ、謎めいた世界とその世界の不合理さを無意識に享受しながら生きる人々には、異世界を覗くような魅力がある。
それは、文化大革命を経た中国を象徴するような、非合理とそれを受け止めて生きていかなければならなかった人々の隠喩なのかもしれないし、ただ単にカフカ的な非合理な世界なのかもしれない。ただ、彼女の小説は「残雪の謎」として語られ、そこに合理的な意味づけは決して成されていない。
僕も彼女の小説に意味を見出したいとは思わない。
ただ、そこに描かれている世界に埋没して、登場人物たちと共に、僕たちの知る合理的な世界からはかけ離れた世界を覗いていたい。

『暗夜』は、斉四爺(チースーイエ)と呼ばれる老人が敏菊(ミンチュイ)という少年を「猿山」と呼ばれる場所へ連れてゆくところから物語は始まる。しかし、その行く先々には二人の行方を遮るような出来事が次々に巻き起こる。たくさんの一輪車が突然通り過ぎていったり、宿を取った家はその中にいれば、怒号のような騒音が聞こえる。またある家に入れば斉四爺は馬が怖くてそこから出られないと言う。片足の取れた少年が早く走り、見知らぬ男が叔父だと名乗る。遠い場所にいるはずの敏菊の父がリアカーに乗せられて近づく。そして、一向に夜は明けず、斉四爺曰く、もう夜は明けないがすぐになれるだろう、と言う。
そして、斉四爺は血を吐く馬を恐れながらどこかへ消えて行ってしまう。失意の敏菊は一人帰途に着くけれど、一たび家につけば、また一人、猿山を目指して旅をしよう、と決意する。

この小説の中で語られる猿山とは一体何なのか、どういう場所なのかすら読者には分からない。そして、なぜ猿山に向かおうとしているのかも分からない。読者が知り得るのは、斉四爺と敏菊が猿山を目指している、という事柄だけで、目的は何一つ判然としない。
さらに何か意味を持ちそうなたくさんのモチーフが氾濫し、しかしもちろんその意味は判然としない。ただ幻想に満ち溢れた神話の世界を見ているような気持ちになる。

河出書房新社の世界文学全集機06には残雪の中短編がいくつか納められている。僕が読んだ残雪の小説は今のところこれがすべてだけれど、どの小説の中にも流れる、意味の分からなさとそれを享受して、矛盾を「そうあるべきもの」として受け止める人々の姿が印象深い。
そして、いくつかの小説に登場する明けない夜。そして、もう一つ、家が重要なモチーフになっているように思える。
残雪の小説の中に登場する家は、どこかおかしい。
人にとって、家、或いは自分の部屋というものは、自分を守る殻のようなものかもしれない。外側には社会というものがあって、唯一安息を得られる場所が家なのだと思う。少なくとも僕にとって、家というものは安心を得られる場所であり、多くの人にとって家とはそういうものであると思う。
しかし、残雪の小説では、頻繁に家が壊れてゆく。形状が、ではなく、家の概念が壊されてゆく。『阿梅、ある太陽の日の愁い』では、主人公の女性は結婚をするのだけれど、なぜ結婚したのか理由が語られないばかりではなく、相手のことを好きなのかどうかすら判然としない。しかし、相手の男と主人公の母はいつの間にか仲が良くなり、主人公は疎外されてゆく。
『帰り道』では、明けない夜の末に辿り着いた家に閉じ込められ、そこから出て行くことを諦める。
残雪の小説で描かれている家は、安心を得られるはずのものが得体のしれない何かによって侵食され、安住を得たいのであれば、それを享受して生きていかなければいけない、という、人と社会の関わりの象徴のように思える。家は守りたい自分の考えであり、外部からの侵入は与えられた思想であり、それは国と人間の関わり合いを形を変えて語っているのかもしれない。しかし、それを単なるメタファーであるとはかたずけるのはあまりに短絡的だと言わざるを得ないほど、たくさんの魅惑的な謎がそこには残されている。

残雪の小説は、謎や不合理に満ち溢れ、それはそのまま、答えも無く、残されている。人や世界は、矛盾に溢れ、時に合理的であり時に非合理的であり、それはそのようなものである、と言っているように思える。
残雪の小説に描かれる一見混沌で理由の見えない世界が、もしかしたら僕たちの世界の一部であるのかもしれない、と思う。

本015 コスモス

『コスモス』 ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ

ゴンブロヴィッチは、ブールノ・シュルツと並び評される20世紀のポーランドの作家で、或いはこの二人の作家は同じ括りの中で語られることも多い。しかし、実際には二人が同時代で同じ国の作家であり親交があったこと、そして扱っていた文学形態が非利リアリスムであること以外には、共通項を見出すことは難しい。シュルツの描きだす幻想に満ちた世界は時にカフカ的な混沌に満ち、シュールレアリスムの系譜でも語られそうな幻想性に溢れている。
一方、ゴンブロヴィッチの諸作は、むしろフランスのアンチロマンの作家の作風に一見似ている。その一点から見ても、この二人の作家の描きだす世界には違いがあり、二人の文学作品を同じように読むことはできないと思う。

シュルツにはシュルツの良さがあり『肉桂色の店』や『クレプシドラ・サナトリウム』に収められた短編の想像性の高い作品には、めくるめくような幻想がある。そしてゴンブロヴィッチの『コスモス』は、もう少し現実的な世界を描いている。しかし、その現実世界は、登場人物たちの考えや自分の理論を通して見ると、突然、歪みはじめる。

『コスモス』は、ゴンブロヴィッチ曰く一種の探偵小説であると言う。確かに作者の言わんとすることは分かる。そして、確かに探偵小説であるかもしれない。しかし、そこに描かれる世界には探偵らしき役まわりはかろうじて存在するかわりに、容疑者も被疑者も明確には存在しない。
すべての謎は主人公(名前はあるのだけれど1人称で書かれていて、小説内でほとんど名前を呼ばれることもない)が、自分の目の前で起きた出来事の関連性を夢想することによって発生してゆく。その紡がれてゆく謎を積み重ねて、一つの必然性を見出してゆこうとする主人公。しかし、首つりになったスズメと二人の女性の口の結びつきというあまりにも懸け離れた二つの出来事を出発点に、その二つの問題を一つに帰結させてゆこうと試みは、出発点からして解決を目指すことが難しい。
さらに天井にある矢のような形をしたシミや、段ボールに刺さったピン、すべてが、最初に提示された二つの問題を一つに結びつけるもののように思えない主人公は、自分が得た情報の中に次々と意味を見出して、一つの結論へと自らを導いてゆく。

物語はめくるめくように展開してゆく。荒唐無稽に見えた二つの問題は必然性を持って一つに結びつきそうな瞬間や、ただの混沌へと霧消していきそうな瞬間があり、他の人物たちのおかしな言動やかみ合わない会話。すべては混沌であり、意味が無いように見える。しかし、行動や発言、そのすべてが主人公にとっては必然性を持って響き、それ故に自分は謎の核心へ向かっていると信じている。
結局、物語にはある種の結論があり、小説は、枠組みとしてみればまとまりすぎるほどまとまっている。そこには同じくゴンブロヴィッチの『フェルディドゥルケ』ほどのエネルギッシュな破綻はないけれど、きっちりとまとめ上げられた小説は魅力的だと思う。

ゴンブロヴィッチが言う。

―『コスモス』の主題は、現実を構成するためのある意識の努力だ。(中略)現実のイマージュは、押しよせ、そして過ぎさって行く黒い波だ。人間は、その感覚の連想によって、形を生み出す動物だ、しかしそれらの容はいつも不完全なものだ。人間はたえず失敗する。人間はいつも確実ではない。ぼくの小説のなかでは、現実それ自体はない。中心のテーマは、現実を構成する主体の努力ということだ。―

まさにその通りの小説だと思う。
ゴンブロヴィッチはアンチロマンの作家たちと比べられることも比較的多いけれど、アンチロマンの作家たちの出発点は既存の小説への疑いであり、アンチロマン=反小説である。小説でありながら小説を否定することを主眼にしている。しかしゴンブロヴィッチの場合は小説を否定することが出発点にはなっていない。
その意味において、ゴンブロヴィッチはアンチロマンの作家と同列に並べることは的外れであると思う。むしろ、ゴンブロヴィッチは小説に系統し、その中で人間を描くことを突き詰めていったのではないかと思う。
『コスモス』における主人公の二つの問題を一つの事柄としての意味を探る行為。これは、一見あまりにも懸け離れた二つの問題過ぎるし、そこに必然性を見出すことの理由もあまりよく分からない。しかし、僕たちが何かものを考えるとき、同じようなことをしているのではないかと思う。

例えば、もし何かの映画を見たとする。そして、その映画を見る直前に何か哲学の本を読んでいたとする。その二つの間に偶然にも共通項を見つけだして、その映画には、その哲学が体現されていると思う。そういうことは十分にあり得ることであると思う。
つまり、自分が知っている知識Aと別の知識Bに自分なりの必然性を見出したときに、それが「答え」になる。しかし、その自分の中の必然性は、果たして本当に正しいのだろうか。
もちろん人は、知らない知識を使うことはできないわけで、自分の知っている知識をめぐる以外に思考体系をつなぎ合わせてゆくことは不可能である。しかし、その限られた知識のつなぎ合わせの中に突然、ある種啓示のように一筋の道が出来る。果たして、その脈略の無い二つの出来事を繋ぐことは正しいのか、正しくないのか。それは、それ以上の知識を持たない「自分」が解決できる問題では無い。
しかし、多くの場合、それは危険であると思う。自分の納得が、真実に届かない壁を作っているのではないかと思う。一方、それは本当に正しい答えである可能性も否定できない。その為に知識は混沌として、どこまでもその混沌の中へと埋没してゆく。

そういう混沌とした知識。自分が知り得る限りある情報を紡ぎ合わせて必然性を見つけ出したいのは人間の習性であると思うし、それを体現しているのが『コスモス』の主人公である。彼は自分の中で見つけた必然性を信じ切り、突き進む。そして、間違う。
間違いながらぼんやりしている。
人間とは常に間違うものであり、間違えながらも自分なりに進むべきものなのだろうと思う。

本014 東京新大橋雨中図

『東京新大橋雨中図』 杉本章子

実在の人物を主人公にした小説は数多い。しかし、杉本章子の描きだす主人公は、どの小説でも時代を変えた偉人というよりは、小さく輝いたその時代を体言させるための人物という感が強い。
この『東京新大橋雨中図』では、幕末から明治を生きた絵師小林清親が主人公で、彼の半生を描いている。

小林清親は江戸の武家の生まれであるにも関わらず、幕末の動乱の末、明治時代に入ると日本各地を転々としながら、東京となった江戸に戻ってくる。
そこでも車引きをして苦境を凌いでいるけれど、昔からの趣味であった絵をもう一度書き始める。それが名代の版元の目に止まり、その当時は、浮世絵の隆盛が未だ衰えをしらない時期であり、そこで小林清親は西洋画の技法を取り入れた独自の「光線画」で売り出す。
彼の描くどこか暗く、その中に光の射すような作風は瞬く間に有名になり、一躍名代の絵師になった清親。
しかし、その影では兄の妻が体を売らなければ生活出来ないほど、兄の家は貧しく、自らの結婚も仕事との挟間で破局してしまう。
江戸時代を引きずりながら、それでも明治という世の中の中で必死に生きてゆこうとする清親は、元来の無骨な男で、自らの信念を貫こうとしても何か人々に対する優しさから、一介の芸術家としての人生を全う出来ない。
隆盛を極めた光線画もコスト面からも人気の面からも次第に下降線を辿るようになり、清親は最後の光線画を描き、そして、思いを寄せる女性と世帯を持つことを決める。そして、生活の安定のため清親は、清親ポンチと呼ばれる漫画を描き始める。

小説はここで終わる。
これ以降の清親は光線画の筆を折り、清親ポンチとして、たくさんの漫画を残している。

杉本章子の小説は、どの小説を見ても、その圧倒的な知識量に敬服させられる。時代考証の深さや文化に対する造詣の深さが付け焼刃の知識では無いことが一読して伺える。もちろん、『東京新大橋雨中図』では小林清親を主人公にすると決めたときに、時代や人物のことを相当調べているのだろうけれど、小説の中に現れるものは、一旦杉本章子の中で消化され、彼女自身が自然にその小説の時代に生き始めたときに書かれているのではないか、とさえ思う。
つまり、小説の舞台となる場所や時代が、単なる言葉だけの表現では無くて、息使いとして、そこにはある。筆に迷いが無く、情景が明確に浮かんでくる。
明治初期、文明開化の波が突然に訪れた東京には、蒸気機関車が走り、洋装の人々が現れる。清親は、その中で、武家の出身であることもあり、どうしても明治という世と自分の間に溝を感じている。西洋化されゆく文化。その中を必死に生き抜く市井の人々が目の前に浮かんでくる。
こんなにも情景豊かに描かれた明治初期は他の小説ではあまり見たことが無い。歴史の変革が成った直後の世の中を見つめるとき、それは歴史の教科書に載っていることでは分からない、貧しい人々の姿の中からしか見えないものもあるような気がする。

十年前の僕ならば、こういう所謂大衆小説はあまり読まなかった。
しかし、一度アメリカでの生活を経験して日本に来た僕は突然に庶民の文化というものが美しく見えはじめ、純文学の難解で美しい言葉やイメージの氾濫に埋もれていくと共に、それとは全く対極にある分かり易く、ただただ生きる名もなき人々の息使いを感じられるような大衆小説にも大きな魅力を感じるようになった。特に日本の女流文学作家の中には、女性の柔らかい視点から描きだされた市井小説が数多く存在する。
杉本章子の小説は市井ものとは言えない部分も多いけれど、主人公の生活するその場所が、まるで目の前に突然現れたかのように明瞭に描かれていて、主人公を取り巻く世界が眼前に広がってゆく。
大衆小説には、純文学から排除されがちなドラマがある。それは物語と言っても良い。技法や思想を体言するための小説ではなく、物語のみがそこにはある。その小説世界に読者を引きずり込み、最後まで物語から離さない筆力は、純文学には無い難しさがある。
そして突然、自分が生きてみたい世界が小説の中に現れたとき、純文学を読むやや崇高な気持ちとは全く別の幸せが現れくる。

本013 大理石

『大理石』 アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ

誰にでもあることなのかもしれないけれど、十代の頃、僕はシュールレアリスムや幻想文学にものすごく傾倒していて、シュールレアリスムの持つ不可解で幻想的で悪魔的な世界は、現実の世界から大きく離れた場所にあって、胸を躍らせていた。
しかし、二十代半ばになってきて、段々とシュールレアリスムへの興味を失い始めて、もっと普通の、というか、地に足の着いた現実を描いた作品や、幻想的であってもどこか現実感のある小説に魅かれるようになった。
本当に美しい幻想は、想像の世界にあるのではなくて、現実の世界のどこか、何か目の前に見えているものからいつの間にか想起される自分自身の想像力の中にあるような思いが強くなった。
それにも関わらず、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグだけは、少しシュールレアリスムの一派からは距離があるけれど、唯一今も何度も何度も読み返す幻想文学の作家で、彼の描きだす夢や幻想、エロティシズムや鉱物、博物学的な幻惑には、未だに新鮮な驚きがある。

マンディアルグの作風として一般的に言われることは、上記の通であるが、澁澤龍彦の言葉を借りれば「幻想とか、夢とか、エロティシズムとか、残酷とか、黒いユーモアとか、考古学趣味といった言葉であるが、むろん、それだけでは彼の独特なスタイルの魅力を伝えることはできないにちがいない。(中略)さらにまた、ここでぜひ言っておかねばならないのは、この反時代的な作家の、いささか度を過ごした博物学愛好であろう。(中略)あたかも虫眼鏡で眺めたかのごとき細密描写によって捉えられた、昆虫や花や植物や、あるいは海の下等生物、たとえば蟹とか海星とか海胆といった、甲殻類や棘皮動物のイメージが頻々とあらわれるのである。」

これは、マンディアルグの初期作品から晩年の作品まで一貫して現れる。最も有名な短編の一つであろう『ダイヤモンド』では宝石鑑定を行う女が幻惑的な入浴をした後にダイヤモンドの中へ入り、太陽の化身に犯される。
『潮騒』という中編は、あまりにも多くの海の生物や花の描写に満たされている。
そして、そこには一貫して流れるエロティシズム、特に女性凌辱は繰り返し繰り返し描かれ、その中でもパリの地下鉄の動く歩道で黒装束の集団に突然犯される女を描いた『ムーヴィング・ウォーク』や長編『オートバイ』の幻想的な描写は、印象深い。

基本的にマンディアルグの凝縮されたイメージの氾濫は、短編作家向きなのだろう。長編は4、5篇を数えるだけで、その著作の大部分を占めているのは短編である。僕もマンディアルグの本領は短編にある、と重々承知だけれど、長編『大理石』は、マンディアルグの博物趣味や女性凌辱、考古学趣味や生物の細密描写、幻想や夢がすべて詰まっていて、その世界観を知るには一番良い小説なのではないかと思う。
この『大理石』は、イタリアを旅する明らかにマンディアルグ自身の分身であろうフェレオル・ビュックという男の目を通して語られている。ビュックの紹介と短い結末部分を除いた小説の核心部分は4章に分けられていて、それぞれが独自の短編の様相を呈している。
一つ目の「ヴォキャブラリー」では、見知らぬ男に誘われてすでに滅び去った豪奢な娼館へ行く。そして、「プラトン的立体」では、海辺の町の小さなホテルで女主人を犯し、沖へ漕ぎ出て、謎の大きな像のある島へと向かう。そして、その内部へと入り、幻視的な風景を目撃する。
さらに「証人のささやかな錬夢術(オニロスコビー)」では、断片的な夢が次々と語られ、小説の白眉である「死の劇場」へと連なってゆく。
またしても見知らぬ男に誘われて、山奥の村へ向かうビュック。そこでは、15歳以上のすべての女性が死を迎える際には、村の真ん中にある劇場の舞台の上で死ななければならない。そして、観客の資格は15歳以上のすべての男にある。ビュックの目の前に連れだされた老婆は、瀕死で息もほとんどしていない状態で、舞台の上にあげられる。そして、男たちの視線に晒されながら、長い時間をかけて、ゆっくりと死へと向かってゆく。その間、男たちはじっと老婆を見つめ続けている。遂には断末魔の叫び声をあげながら、息を引き取る女性。そして、また旅を続けるために去ってゆくビュック。
ここから先の物語は何も無い。ただマンディアルグの、読者に物語を締めくくってもらいたい、という言葉のみで、つまりそれは作者、主人公、読者は対等な立場にあり、各々が同じ力を持って物語を紡いでゆく、ということなのだろう。豊富なイマジネーションの散らばったこの小説の終わりとしては、そうあるべき結末だと思う。
閉じられた本の後も、読者の頭の中ではビュックが旅を続け、幻想とエロティシズムの中を歩いてゆく。

一見、連続性の無い物語ではあるが、どこもかしこも幻惑的で、一貫したマンディアルグの美学に満たされている。そして、「死の劇場」で極致を迎えるように、女性は凌辱され続けている。しかし、その凌辱は決して女性蔑視から来るものでは無い。寧ろ、「プラトン的立体」で不可思議な像の内部へ入っていくことに代表されるような、母体への強い憧れや回帰の欲求の表れなのだと思う。強く女性を愛するが故に、愛の表現の極致として、凌辱がある。さらには、一人の女が、男の視線に晒されながら死を迎える、というあまりにも残酷な状況。人であるならば、死を人に晒すことの危うさやつらさを感じるであろうし、それは裸体を見られることと同義かそれ以上の辱め、視姦であり、最高の凌辱である。
そして、それが最高の凌辱であるが故に、それはマンディアルグ流の最高の女性賛美である。

一度、マンディアルグの幻想的な世界観を体験して、その世界への共感を感じるならば、それは一種完璧な世界観を持った、現実からかい離した、別世界を旅することなのだと思う。

本012 表徴の帝国

『表徴の帝国』 ロラン・バルト

ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』は、色々な人たちに語り尽くされていると思う。若くして、言葉というものに向かいあったロラン・バルトの偉大な功績はバルトの著作を読めば、決して難しいものでは無く、むしろ、その分かりやすさに落とし穴があるような気がする。言葉を使って考え、言葉で語ること、それは正確に自分が伝えたいと思っているを真に表しているのか。そういう問題に対して、バルトは明晰な答えを持っていた。
そのバルトが1966年に文化使節団の一人として日本へやってきた。50歳を超え、名実共に世界屈指の哲学者として数えられていたバルトである。
そして、その来日の際に受けた日本(或いは日本文化)の印象を通して「表徴」というものを語ったのが『表徴の帝国』というエッセイである。
これを哲学書として読むことももちろん可能であると思うし、そう読むべきなのかもしれない。それでも僕は『表徴の帝国』を偉大な評価を得た哲学者の軽みのあるエッセイだと思っている。
僕の読み込みの浅さや薄学さに端を発していることは十分承知の上で、尚、日本人から見たときのバルトの日本文化に対する考えは、極めて西洋的であり、この本が扱うすべてのことが「西洋文化(意味文化)の裏返しとしての日本文化(表徴の文化)」或いは、日本人から見たら馬鹿らしいほど荒唐無稽な意味の捜索が綴られている。つまり、そのアプローチと答えの導き方(むしろ答えを出すということ自体)が西洋思想であり、『表徴の帝国』は西洋思想的に日本を解釈した場合の、西洋と日本の差異は「意味文化と表徴文化の差異」であると思う。
それでも尚、ありあまるイマジネーションと深い洞察には、日本人には無い視点からの日本があり、バルトの目に映る日本を通して、自分が当たり前のように感じていた日本文化を、明晰なものとして見ることが出来る。

結論を先に言えば、日本文化とは表徴の文化であり、表徴とは裂け目である。表徴とは裂け目であり、その裂け目から見えるものが「意味」では無く、誤解を恐れずに言えば「概念」である。
それではなぜ西洋文化が持つものが表徴では無いのか。
それは、西洋的に考えれば、表面に現れ、視覚として捕えているものが
1、それそのものである
2、表面に現われていない別の意味を表している
という二つのどちらかであるからではないだろうか。
それに対して日本文化が表すものは「何かの形を借りた意味」を表しているのでは無く、表面として現われているもの、それ自体が、他のものに代えがたい「概念」を表し、それと同時にそれそのものでも有りうるからではないか。その表徴が表しているものが、あまりにも漠然としていて、形として捕えることが出来ず、そしてさらに、明確なヴィジョンとしては捕えがたい変動を見せるものである。「表徴」とはそのような意味で、言葉にすること、明確に表徴を意味づける作業をすることによって、さらに捕えられない場所へ逃げてゆき、明確に「表徴」の意味するところを言うことは出来ない。
つまり、意味づけ出来ない「概念」の表層として存在する「表徴」が何であるかを語る、というバルトの行為自体すでに論理的な矛盾が生じてしまっている。
そこに対する批判は確かにあると思う。言い得るとすれば、意味づけできないものであると意味づけることしかできないのだ。
しかし、バルトはそれが分かっていないほど思索の浅い人間ではないと思う。その意味づけできないことを分かった上で、それでも尚「表徴」とは何か、を探ることにこそが主眼である。

一番分かり易い例は、歌舞伎の女形であろう。
歌舞伎の女形が表徴しているものは「女らしさ」であり、「女」そのものでは無い。「女」という概念であり、意味でも無ければ、女そのものを演じているわけでも無い。だからこそ、老齢を迎えた俳優が生娘を演じることに違和感が存在せずに、舞台の上にある。
つまり、女形が表徴するものが、おぼろげで捕えることの難しい「女」の概念そのものだということである。
文楽で言えば、まず、文楽は人形を動かす人間がいる。その人間は包む隠されるわけでも無く、そこにいる。いるにも関わらず、そして、人形を動かしているにも関わらず、全く存在は無視されて舞台は作られてゆく。
そこには、人間が存在しているだけで、その人間の意味は全くなく、いるとかいないとか、そういうことでもなく、ただの無である。意味を与えられる必要すらない場所にいる。そのに人間がいるのかいないのか、を論じることに全く意味が無く、どちらでもいいし、というか、どうでもいい、そこに人間はいるし、それと同時にいない、だけである。
そして、人形は、人間の模倣をしているわけでは無く(模倣をしたいのならばその最善の策は人間が人間の模倣をすることである)、「肉体の感覚的な抽象化」である。だから、そこには人形の行為の裏側にある意味を探す必要が無い。表面に現われているものがすべてであり、抽象化された「概念」そのものであり、それこそが「表徴」の意味するところである。
決して明確に映像化できるものを表しているわけではない、裏側に意味を見つけることでもない、ということが重要である。映像化出来ない何かであるから意味の喪失が起こり、「無」に帰してゆく。その漠然とした「表徴」を捉えようとしたのが『表徴の帝国』である。

日本が表徴の帝国である、その象徴として、バルトは皇居を挙げている。西洋文化の首都や大都市にはたくさんの機能的な建造物が立ち並び、機能的であることの真理や意味を、大都市はその充溢として体言している。もちろん、東京も同じように大都市としての機能を兼ね備えている。にも関わらず、東京の中心には、何者も入ることのできない禁域がある。それは、皇居であり、しかも「何らかの力を発するためにそこにあるのではなく、都市いっさいの動きに空虚な中心点を与えて」存在している。中心を見ようとすれば、そこには無しか無く、中心へ向かうことが「真理」へ近づくことだという西洋的な考えからすれば、肩すかしをくらったような、無である。中心点には、空虚さがあり、そこには意味の喪失しか無い。
この話を読んで、何ともまあ、その後に語られる「表徴」についてのバルトの見解を読めば読むほどこの見解は単なるこじつけであるとしか言えなくなってゆく。それにも関わらず、この話の面白さ。「真ん中が無だとは!」とそこに無があることに意味を感じて、驚いたバルトが目に浮かぶようで楽しい。
他にもすき焼きを「中心のない食べ物」と称し、次々と生の食材が並べられて、それが女中の手によって鮮やかにすき焼きへと変貌していくことを目の当たりにして、その時、人々は「なまの食物なる神々の黄昏」を見ているという。天ぷらは、軽やかな衣に包まれた「完璧な周縁を持たないすきま」「空虚な表徴」であるという。
何もそこまで言う必要はないのではないか、というほど、すき焼きや天ぷらを表徴として捕え、意味を与えようとしている。(それは極めて西洋的な行為である。しかし、それは「表徴」を論じるためには避けて通れないものでもある。)

面白おかしくツッコミを入れながら読める本、そんな意味で僕はこの本をエッセイだと思っている。
そして、それと同時に僕は作曲家として、この「表徴」の音楽を作ることはもしかしたら日本人にしか出来ない特異な性質のものなのではないか、とも思っている。音は元来抽象的なものであり、音そのものを目で捕らえることが出来ない。にも関わらず(あるいは、であるからこそ)古典音楽の時代から音楽が「音楽そのものである(絶対音楽)」か「自然や何か他のものを音として表している(表題音楽)」のどちらかである、というようなことが語られてきた。
しかし、危うく忘れそうになるけれど、音自体が極めて捕えどころのないものである。そこにどちらの場合でも結局は音に意味を与えようとしている。そうでは無く、表徴として音を捉えられるような何かを見つけられたら、それはとても素敵なことだと思う。

本011 今戸心中

『今戸心中』 廣津柳浪

坪内逍遥や山田美妙らによって言文一致が試みられた明治時代の文学、その中にあって廣津柳浪の存在は段々と忘れ去られていっているような気がして少し悲しい。廣津柳浪の書く小説は大衆的な題材を扱いながらもどこか暗く悲惨な物語が多く、悲惨小説や深刻小説などと称されるほど、物語全体が重い影に覆われでいる。しかしその反面、物語を彩る流麗な言葉と登場人物たちの機微を描いた心理描写は美しく、ただの暗く悲しい陰惨な話には留まらない奥行きがある。
樋口一葉が同じく遊郭を扱った「たけくらべ」を発表した翌年、1896年に発表された廣津柳浪の代表作『今戸心中』。物語は吉原の遊女吉里を主人公に、相思相愛でありながら別れ、田舎へと帰っていった青年平田への忘れられない思いを胸に、嫌っていた客善吉と心中を遂げる、という話。
今でこそ、暗く陰惨な小説は珍しくも無く、心中を扱った物語すら何も驚かずに読むことができるかもしれない。しかし、この時代に当時の出来事から題材を取った『今戸心中』は、人々にとって暗く悲しい物語だったのだと思う。

廣津柳浪の文章は美しい。それは、今読んでも色褪せない美しさであると思う。『今戸心中』の冒頭は以下のように始まる。

太空(そら)は一片の雲も宿(とど)めないが黒味渡ッて、廿四日の月は未だ上がらず、靈あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽る程である。不夜城を誇顔の電気燈にも、霜枯三月の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ッた聲のさざめきも聞えぬ。

ここにはすでに冬に差し掛かったであろう冷えた空気や透き通った空が見えて、そしてそれとは対極的な吉原という巨大な遊郭を大門から水道尻まで、と書き、不夜城や電気燈という言葉の持つ近代的な(今から見ればレトロな)響き。この文章の中には、自然や季節の移ろい、そして華やかなる遊郭が見え、さらに賑やかであるはずの遊郭が静まっている様子。これだけで物語の世界は突如として浮かび上がり、主人公の遊女吉里が登場する。

まるで映画の冒頭を見ているかのような美しく鮮やかな始まり。この流麗な文章の中で、登場人物たちは命を持って、目の前に映像が浮かぶかのような明瞭な描写で動き始める。
この吉里には新造(花魁の付き人のような人)のお熊がついていて、二人は言い合いをしている。さらに吉里は、同じく花魁の小萬というお職と仲が良い。
登場人物は平田青年、善吉、そして平田を連れてくる西宮を合わせて、ほぼそれがすべてである。
その登場人物たちの中で繰り広げられる人間模様。
まず、一読したときには、物語よりも柳浪の日本語の美しさに目を奪われてしまう。鮮やかに浮かび上がる遊郭の中。
吉里は、平田を愛しているが故に、吉里を気に入っている善吉を冷たくあしらい続けている。それが新造のお熊にとっては腹立たしい。そこは商売、と割り切って愛想笑いの一つでも浮かべてくれりゃァいいのに、と思っている。
仲の良い小萬は、吉里の心の内を知りながらも、色々と助言をしてくれる。

そして、西宮と連れだって現れた平田。
酒を飲み交わしながらも暗い表情の吉里と平田。無口のまま、最後のときを過ごし、平田が帰ってゆく。
そして、窓を開け放って外をぼんやりと眺める吉里。
そこへ現れた善吉に、本人も驚くほどの愛想で吉里が応える。
吉里は、平田を失ったことで、その悲しみを抱えながらも自分を騙して、涙をどこかへ吹き飛ばそう、と善吉のいい人になる、とこの時に決めたのかもしれない。
しかし、どんどん身を持ち崩し、お金も無くなり、見た目も手の行き届いたとは言い難い様子になってきた吉里。あたり構わず、花魁仲間から金を借り、返さず、孤立してゆく。

そして、ある夜、吉里はこっそりと吉原を抜けだして、善吉を相手に、今戸で心中を遂げる。


この心中ものでありながら、展開の予測のつかなさというものが柳浪の一つの持ち味であると思う。愛した男を思い続けて、かなわぬ恋に身を焦がし、手と手を取り合って心中にいたる、明烏のような純愛物語では無い。
違う男を愛しながら、世の中を儚んで別の男と心中を遂げる吉里の屈折した純愛表現。
愛を貫くためにした心中は単なる結果であって、そこへ到る吉里の哀しみの深さがこの小説の白眉であると思う。

今読んでも、そこにあるドラマは、容易に共感を持てる。
心の葛藤とその葛藤の末にある行動。その両者が見事に描かれていて、人の命の儚さや、恋の激しさが、煌びやかに彩られた吉原を舞台に、哀しく美しく描かれた素晴らしい小説だと思います。
そして、僕は、何度も何度も読み返しながら、その都度、明治時代の日本語の美しさを思い、明治という時代への憧れも増してしまいます。

この広津柳浪の小説は他にも『雨』や死の床に着いた女の独白『残菊』など、悲しく美しい小説が多々あり、その中で『今戸心中』は比較的簡単に手に入るのではないかと思います。
筑摩書房の「明治文学全集」に収録されています。

本010 オコナー短編集

『オコナー短編集』 フラナリー・オコナー

フラナリー・オコナーは、アメリカの作家で、敬虔なカトリックであり、して全身性エリテマトーデスという不治の病と闘いながら小説を発表し続けた。
主にアメリカ南部を舞台にした、白人の中産階級、差別が法的には撤廃された後の黒人、そして、その黒人たちと同等かそれ以下の水準で仕事や生活をするホワイト・トラッシュと呼ばれる白人たちを中心とした彼女の小説は、時に激しく、そして、奇妙な雰囲気を持っている。

普通、小説というものが何か思想を扱うものだとすれば、そこにはある一定の、作者が信じる「正しさ」があると思う。その「正しさ」を作中の「正しい人物」が体言し、そのコントラストとして「正しくなさ」を体言する人物が現れる。しかし、オコナーの小説に登場する人物たちの中に、作者が持つ思想としての「正しさ」を持ち得る人物はほとんどいない。
すべての人々が、どこか歪んだ思想を持ち、そして彼らは自分の考えは正しい、ということに固執している。それはもちろん、作者が持つ思想的「正しさ」に固執しているわけではなくて、作中人物の身勝手な正しさである。つまり、大体において作中の登場人物たちのほとんどすべての人が間違っているというのが、分かり難さの要因であり、また特徴であると思う。そして、小説を満たしているその反転したような反道徳性が、純粋な正しさの裏返しであるが故に、小説は極めてキリスト教的な道徳に満ちていると言えるのだと思う。
また、原文で読む彼女の小説は、とても抑制が聞いていて、決して感情的では無い。何もかもが淡々と書かれ、その冷静な文章がまた、奇妙な味を引き出しているのだと思う。

新潮文庫から刊行されている「オコナー短編集」は、オコナーの残した短編の中から中期から後期に残された円熟期の秀作を中心に編まれている。
僕が初めてオコナーに接したのはアメリカに住んでいる時で、最初期の短編『ゼラニウム』(これは住んでいるアパートの窓辺にあるゼラニウムの花瓶が落下して砕け散る、という話だった。)で、その後、授業で接した『Revelation』に衝撃を受けた。この短編は「オコナー短編集」にも収録されている『啓示』で、初めて読んだ『ゼラニウム』と並んでオコナーの作品の中で一番印象深い。

『啓示』の主役はターピン夫人というひどく大きな図体をした女性で、彼女と彼女の夫が町医者の待合室に入ってくるところから始まる。
待合室に入る彼女がざっと見渡す室内には、ホワイト・トラッシュの女やら、愛想の無い本を読み続ける少女やら、空いた席をつめない少年がいて、すでにその瞬間からターピン夫人の中には、その場所が道徳的に正しくない場所である、という印象が芽生える。
そして彼女はその中でも、自分だけは敬虔なクリスチャンとして道徳的に、人として正しい道を生きているということを誇示するために、一番自分に近い(が自分よりは正しくないと彼女が思う)女性を選びとり、話しかける。上辺だけの会話が進む中、段々と会話の輪は広がりながら、ホワイト・トラッシュの女性を巻き込み、ターピン夫人は「如何に私は善人であるか」を手を変え品を変え、話す。しかし、ターピン夫人は明らかに他の人々を自分より劣ったものと考え、意識的に、自分がそう思っていることを排除しようとしている。そして、その邪なエゴを見透かしたように、本を読み続ける少女は、あたかも以前から知っていたようにターピン夫人に避難と蔑みの眼差しを向ける。
しかし、その中でも自分の心の中にあるキリスト教精神に照らし合わせながら、自分勝手な救いを見出す。

「…わたくしを善人にしてくだされば、ほかのことはどうでもかまいません。どんなにふとっていても、どんなに醜くても、どんなに貧乏でも!」彼女は元気が出てきた。イエスさまはわたしを黒んぼにも、白人の屑にも、醜い女にもなさらなかった! イエスさまはわたしをわたし自身にして、わたしにいろいろなものを少しずつくださった。イエスさま、ありがとう!と彼女は言った。…(『啓示』須山静夫訳より)

彼女は善人というものを、非常に高いランクに位置づけ、それは美しさや体型の良さより上だと思う。つまり「善」というものが彼女にとっては、体の体型や見た目と同じように人から映る「社会的なもの」である。彼女が善人でありたいと言うのは、どんな人にも平等に接し、人のために尽くす人生を送ることではなく、人よりすぐれていると思える人間でありたいということである。人に対して善行を施すのではなく、人から「彼女は善行を施すとても正しい人間である」と思われたいだけである。そして、彼女の考えでは、神様が「善人」を作るとすれば、正しい人間として善人を作るはずであり、黒人やホワイト・トラッシュのような人から蔑まれるような地位や所得、仕事や思想を持った明らかに正しく無い人間のうちには善人が存在し得ない。自分がお金に迎合した富裕層でも無く、下層階級にも所属せず、白人として中産階級に所属していて、さらにあまりにも醜いわけでもないということ自体が、神様が自分を善人と認めていることだと考えている。彼女は、生まれながらにして幸いにも恵まれたキリスト教的教養を兼ね備えた存在だと信じ、その中に生きようとしている。
しかし、それと同時に彼女の中に生まれている黒人やホワイト・トラッシュへの差別意識は決して拭い去れるものでは無く、彼らを差別をするのが白人中産階級の中での当然の事項であれば、そのように対処し、逆に黒人の使用人を使い、蔑みを持ちながらも平等に対処しようと試みている。それが真に心からの非差別意識であればいいのかもしれないが、彼女の中には明らかな階級意識があり、それを持っていることの後ろめたさ(人種差別的なことへの後というよりは自分の中の正しさの矛盾への後ろめたさ)がある。
その為に、本を読む醜い少女から睨まれた時には、心の中で「私は何もあなたに悪いことをしていない」と思い、そして、どこかしら心を見透かされたような気持ちになる。

そして、突然、ターピン夫人が心の中で、自分の境遇に感謝していると、少女が本を投げつけ、左目の上にぶち当たる。そして、少女がささやく。
「もといた地獄に帰りなさいよ、老いぼれのいぼいのしし」

ターピン夫人は動揺して待合室を飛び出して家に帰る。黒人の使用人たちにその話をすると彼らは、ターピン夫人は世界で一番優れているのに! と慰めるが、それにすらターピン夫人はイラついている。黒人には私の気持ちなど分からないのに、同等な立場に立って感情を共有しようとするな、というイラつきである。
さらに、彼女はフラフラと自宅の豚小屋へと向かう。もちろんそれは自分がいぼいのししでは無く、豚でもないことを確かめに行く為で、その間にも、彼女は、少女が本をぶつけた相手がなぜ自分なのか、ということを必死に考える。その待合室には、ホワイト・トラッシュもいたし、自分が一番卑しい人間であったはずは無い、それなのになぜ自分が選ばれたのか、と。
ここでも彼女は、自分は善人であり、それは極めて相対的なものだと考えている。つまり、私はAさんよりも優れていて、Bさんよりも優れているから、この場所において一番の善人である、というようなことで、その土台すら自分の見識の中でしか見ていないために相当危ういが、それ以上に、普遍的な「善」にはあまり目がいかず、彼女の「善」は常に相対的である。
豚小屋で、豚に水をかけながら、彼女は自問するーどうしてわたしがいぼいのししなのよ?
そして、遂に彼女は啓示を受ける。豚を見つめながら、天に昇る人々の幻を見る。その中に他の人々よりも優位に立つ自分を見出し、やはり自分は正しいのだ、と確信し、家へと帰る。

ターピン夫人は、実際に啓示を得たのだろうか。そして、彼女は正しきキリスト教徒としての「善人」へと近づいたのだろうか。
僕はそうは思わない。決して逃れることのできない自分の思想の中での正しさを、ただ推し進めるだけの確信を得ただけで、より強度な「自分の考え」を作り出したということなのだと思う。
つまり、ターピン夫人は正しくない。そして、他の登場人物たちも別に正しくない。小説に登場するほとんどの人々が正しく無く、オコナーの創造する人物たちの正しく無さが強固であればあるほど、その裏側にあるカトリック的な正しさが、小説には現れないが故に、より見えてくる。
そして、正しくあろう、とすることが一種の人間性であり、過ちを犯すものが人間であり、それ故に神が必要である、と強く謳いあげているように思う。これは単にキリスト教としての教養を描いた小説では無くて、オコナーは人間が人間である所以を、極めて冷静に描いた作家なのだと思う。

小説の表層だけを見たときに、これほどまでに歪んだ、奇妙な人物たちの羅列は珍しい。しかし、その裏側に「正しさ」が見えたときに、オコナーの小説の本当に意味が見えてくるのだと思う。



本009 ボロ家の春秋

『ボロ家の春秋』 梅崎春生

梅崎春生は、野間宏などと共に第一次戦後派作家と称される世代に属している。第二次大戦後、主に1946年頃に主要作品を発表して、文壇で注目された作家たちで、一般に梅崎春生の名前は、「桜島」や「幻化」などの戦争小説で知られ、そこには戦争という狂気の中を必死に生きる人々の姿が、幻想的に描かれている。そして、梅崎春生には、戦争を直接的に扱った諸作品とは別に、戦後の混乱期を舞台とした市井の人々の描いた作品群が存在する。彼の戦争小説でも基本的には「どんな苛烈な環境にも日常性はある」ということに基づいて書かれていて、それは、市井の人々の日常を描いた作品にも同じように言えるのではないかと思う。戦争という大きな傷跡、その混乱期から復興を始めようとする人々を、決して戦争の犠牲者としては描かず、その中でも逞しく生き抜いてゆこうとする姿が、鮮やかに、そして、軽妙な文体で描かれている。

同じように戦争を題材にした小説と人々の日常を描いた作家に島尾敏雄がいる。何故か、僕は梅崎春生の小説を読む度に島尾敏雄を思い出すけれど、それは梅崎の「どんな苛烈な環境にも日常性はある」という言葉を、全く反転させたような「どんな日常にも潜む狂気」にある。読み進めるのが辛いほど痛々しい気持ちになるけれど、とても深く心に突き刺さる。
一方、梅崎春生の小説には、それほどの痛みが伴わない。どこか客観的な視点から描かれた一見何でもない日常。そこには、戦後ならではなのだろうか、それとも都市生活者の悲哀なのだろうか、誰もが守ろうとする「個人」としての自分とそこに現れる他人との関係が描かれている。誰もが生きることに必死なとき、その中で、最も守り抜きたいものは自分である。そして、他人の干渉の煩わしさは極力避けて生きていたいのにも関わらず、人は一人では生きていけないのか、自分からその煩わしい人間関係に飛び込んでゆく。
人間にとって他人は煩わしく、そして愛おしい。
それは今も変わらずに続く、人間の性なのだと思う。

特に『蜆』という小説の悲哀は、とても美しくて、僕にとっては『ボロ家の春秋』『幻化』と並んで、梅崎春生の小説の中でも特に忘れがたい。

ある日、主人公が省線電車に乗っていると、突然声をかけてきた男がいた。そして、なぜかその男は自分の着ていた外套を主人公に与え、去ってゆく。しかし、幾日か経ち、また電車でその男に会うと、これ見よがしに外套を褒め、暗に返して欲しそうに講釈を垂れる。しかし、返そうと言えば、いらない、と突っぱね、欲しくなれば力づくで剥ぎ取るなどと言い残して去ってゆく。
またある日、粕取焼酎を飲み過ぎて、道に倒れる主人公から、外套を剥ぎ取る男。そして、そのまま、無気力に、何となくもう一度出会うかもしれない、と思っていた主人公の前に、男はやはり現れた。
そして、彼は話した。
満員の省線電車から、跳ね出されるように落ちて死んだ老人が残した大きなカバンを開けると、そこにはたくさんの蜆が入っていて、それを売りさばいて、お金を儲けた。だから、今夜は二人でゆっくり飲もう、と言う。
そして、もう心を守るために着てきた外套はいらなくなったから売ってしまおうという男に、最後にもう一度だけ着させてくれ、と頼む。すると、そのポケットの中から、いくつかの蜆が出てきた。

こんなような話で、人々が必死に生きてゆく中で、誰かの死が目の前にあっても、皆がそれを無視して乗り越えて、それでも生きてゆかなければならない悲しさ。それが決していいことだとは言わないまでも、他人に対して冷徹で、自分が生きてゆく様とまざまざと向き合う人々は、未来へと進んでゆく。たった一つの外套は、ある男にとっては、他人から自分を守る壁であり、もう一人の男にとってはただ単に寒さをしのぐための衣服だった。一たび、生き抜く術を見つければ、それで外套の意味は無くなり、死んだ老人の残したカバンから零れ落ちたいくつかの蜆だけが、残る。しかし、それも小説の最後には味噌汁にして飲み干されてしまう。
そこには、何とも言えない複雑な思いが残る。人を蹴落として生きてゆく狡猾さと強さ。そして、そうしなければ生きてゆけない悲しさ。そんなものが絡み合いながら、哀愁となって迫ってくる。

一方『ボロ家の春秋』は、もう少し軽妙な文体で、奇妙な同居生活をおくる二人の男の姿が描かれる。これもまた、都電の中で知り合った男から、部屋を間借りすることになった主人公。しかし、そこに家主夫婦は颯爽と姿をくらまし、変わりに野呂なる男がやってくる。野呂曰く、家主からこの家を買い受けたといって証書を見せる。しかし、主人公も借り受けている証書がある。さらには三国人の男が押し掛けてきて、ここの家主には借金があるという。ここで、家主が逃亡したことが明確になり、二人の奇妙な同居生活が始まる。

これも戦後を生き抜く人々の一つの姿なのだろう。二人は、お互いに少しでも利益を多く得ようとする。それはいつしか、憎悪へと変わりながら、それでもどこへ行く術も無く、住む、ということに執着した二人は、相手を出し抜くことを考えながら、ただただ同居を続けている。
梅崎春生の小説の中には、自分のテリトリー(主に家)を脅かす他人の存在が強く描かれていることが多い。どの小説でも主人公たちは、自分のテリトリーを脅かされることに不安を感じながらも、一種それを期待している節がある。他人からの干渉を拒絶しながらも、他人の迷惑行為こそが、自分が生きていることを感じさせる一つのバロメータかのように、何となく傍観している。その極致が、一体どちらの所有物かさえ分からなくなってしまった一軒の「家」。そこに互いにいがみ合う二人の人間がいて、お互いに自分のテリトリーと相手のテリトリーの区別すらつかないまま、何かを守ろうとし、何かに脅かされている。「個」を守りたい。他人を拒絶したい。しかし、それと同時に他人との関係を築きたい。そう思いながら、生きる人間の性。それが、軽妙な文体の中にしっかりと捕えられていて、読んでいて気持ち良い。いがみ合っている人間の物語を読んでいて気持ち良い、というのも気が引けるが、それほどまでに梅崎春生の文体は、軽妙で、どんなに他人を軽蔑しながら生きている人間が描かれていても、結局はその一番奥底では、人間を愛し、そして、より一層軽蔑し、その人間の弱さを愛しているのだと思う。

「どんな苛烈な環境にも日常性はある」という梅崎春生の考え方。それこそが、人間の善や生き抜く力を肯定した、力強い、生きることへの宣言のように思える。
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