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映画078 浮草

 『浮草』 1959年 小津安二郎

小津安二郎の作品は無声映画、白黒、カラーと多岐にわたっている。その中でも一番見られているのは『東京物語』に代表されるような、原節子やら笠智衆やらが常に家族を演じ、作品毎に同じような形式から違う主題を導き出した1940年代〜1956年の『早春』ぐらいまでの作品だろう。
その後、1957年に小津安二郎が描く世界としては際立って異質で暗い『東京暮色』があり、それ以降の6作はカラーで撮られている。
以前にも書いたことがあったけれど、僕は小津映画というものがあまり好きではなかった。ローアングルの固定カメラで映し出される市井の人々の日常を、こっそり覗いているような気がしてどこか気分が落ち着かなかった。しかし、アメリカに住んでいる頃にやっていた小津映画特集を見るうちに、そこに映し出されている「静」が、ある種のヨーロッパ映画の持つ静けさとも隔絶していることを理解したときには何か大人になったような気さえした。その当時の僕はやはり小津映画と言えば白黒という印象を強く持っていたけれど、最近になって晩年のカラー作品を見直していたらどの作品も美しかった。
その中でも戦前の自作無声映画『浮草物語』を自らリメイクした『浮草』の印象は強烈で、、小津作品で唯一宮川一夫が撮影を行ったその映像美、そして安定した住居を持つ家族を描いた作品が多い中、ドサ回りの一座が立ち寄った志摩半島が舞台であること、など異質な雰囲気に満たされている。

ドサ回りをする嵐駒十郎一座が立ち寄った志摩半島のとある漁村、そこには座長の駒十郎(中村鴈治郎)が密かに子供を産ませたお芳(杉村春子)が住んでいる。しかし駒十郎には同じ一座の中に公然の仲のすみ子(京マチ子)がいて、何とかすみ子の目を盗みながら伯父だと偽りながら息子である清に会いに行っていたけれど、それを怪しんだすみ子は妹分の加代(若尾文子)をそそのかして清を誘惑させている。そんな中、一座の公演は不入りで挙句の果てには一座の人間にお金を盗まれて一座は解散を余儀なくされる。駒十郎とすみ子の不和も頂点に達した駒十郎はお芳のところへ行って三人で暮らしていこうと告げる。しかし、いつの間にか本気の恋へと変わっていた清と加代は駒十郎に仲を認めて貰おうとするが、折角新しく家族を再生させようとした駒十郎にとってそれは痛い仕打ちのように思えた。思わず加代を殴ってしまった駒十郎と清の間に悶着が起こり、たまりかねたお芳は清に駒十郎が本当の父親であることを告げ、駒十郎はまた旅へ出ることを決心する。

何よりもまず印象的なのが宮川一夫の映像である。とにかく赤が強い。こんなにも強い赤に満たされた小津映画は他には無い。そして、基本的にローアングルでの中距離撮影や、顔のクローズアップを多様する小津映画で、多分唯一であろう遠距離からの撮影が強い印象を残している。駒十郎一座が漁村にやってくる。その道行を子供たちが囃し立てながら小道へと消えてゆく、その漁村にとっては「ハレ」であろう瞬間を俯瞰図として捕えている。別に映画というものはその撮影テクニックを知ったからといってより深く知れるものではないけれど、そこには他の小津映画にはない土地への愛着が見れるような気がして印象深い。
お芳との関係に気付いたすみ子が駒十郎を責め立てるシーンでは、豪雨の中、小道を挟んだ軒先に二人が立つ。土の匂いに満たされるような雨の中、二人がにじり寄る。歌舞伎を見ているような気迫で、激しく、そして美しい。お芳の家でお茶を飲む駒十郎のシーンは静けさに満たされている。二人の女の静と動の感情がうごめく中、駒十郎には一貫して主体が見えない。何となく流れ流されてきた浮草のような人生なのである。そこにはどこか喪失感があって、物悲しい。

その中で展開されるドサ回りの一座の人間模様。加代に清を誘惑するようにけしかけるすみ子。その関係は本当の姉妹のような信頼関係ではないし、本気の恋愛へと発展してゆく加代の心情をすみ子は決して予測出来ないし、すみ子と駒十郎の関係も決して夫婦のそれでは無い。ただそれは苦楽を共にした一座の人間関係であって本当の家族の関係ではないのだけれど、決して小津映画の描く家族と遠い存在ではないように思える。結局、人が生活を共にしながら生きていく姿は一種の家族とと言えるのかもしれないが、そこには家族の関係にあるような何があっても根底には信頼がある、というような関係では無く、どこか脆い。そしてその脆さを打ち消すように駒十郎はお芳との間が切れない。切れないけれどもそこにも家族を作ることが出来ない。
『浮草』は無声映画のオリジナル『浮草物語』で描かれたものと全く同じ構造ではあるけれども、それが白黒映画時代に執拗なまでに家族を描いた小津安二郎が改めて描いた家族不在という家族を描いた映画なのだと思う。
ラストシーン近くで駒十郎は「これでいいんだ」と自分に言い聞かせて村を去って、またドサ回りを続けることを決心する。そして駅の待合室にいけば、すみ子がいて、黙って煙草の火を点けてくれる。
結局は、芸人でしかない二人はまた苦楽を共にすることを決める。
そこには芸事の世界に生きる人々の物悲しさしかない。しかし、彼らにとっては悲しみも何もかも乗り越えなければいけない事情がある。なぜなら彼らは例え辛くとも何かを捨ててでも、芸の世界以外に生きる道も生きたい道も無いのだ。
同じように明日の人生も分からない仕事をしている僕にとって、どうしてもこの映画は忘れがたい。
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