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映画079 ツリー・オブ・ライフ

 『ツリー・オブ・ライフ』  2010年 テレンス・マリック

極めてシンプルな映画で、冒頭にはヨブ記からの引用が掲げられている。

「わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い神の子らは皆、喜びの声をあげた。」

そしてナレーションで語られる、二種類の人間。
一方の人間は、世俗での成功を徳とする。そして、もう一方の人間は神にすべてを委ねる。

冒頭に掲げられたヨブ記でとは善人ヨブは神に試され酷い仕打ちを受ける。それでも神を信じ続けたヨブは最後には報われる、という話である。
何事も自分の知っていることや自分の正しさを過信すればするほど身勝手になり、自分の力を過信する。その少しの過信が大きな過ちに繋がってゆく。
すべての物事は神の元に定められており、どんな良い出来事も過信せず、どんな悪い出来事にも挫折してはいけない。そういうような意味を持っている、と個人的には思っている。つまり、冒頭から、この映画の中では、全うに生きようとしているのに訪れる様々な困難が暗示されているわけで、それはタイトルのツリー・オブ・ライフ、つまりエデンの園に生える生命の樹が所以になっているところからも、全編に神の支配と人間の関係が描かれているのではないかと分かる。

そして物語が始まる。
厳格な父(ブラッド・ピット)と、特に異を唱えないながらも何か違和感を持ち続けている母、そこに三人の息子たちがいる。どこにでもありそうな家庭だけれど、厳格な父は世俗での成功を得るためには時に人は悪人にならねばならぬ、と言う。
しかし、母は常に善人であれ、と言う。
その矛盾の中で迷う子供たちは、時にいたずらに明け暮れ、どこか全うな道から外れてゆく。

もう一つの物語は、その長男(ショーン・ペン)が壮年期に入って、何やら高層ビルの豪奢な椅子に座っているところから始まる。彼はどうやら世俗的には成功を納め、名声を得ているようである。
しかしその表情はどこか浮かない。
彼の回想が淡やかな映像で捕らえられ、それが父母と過ごした幼少時代なのである。
そして、彼の回想は、視覚的なことや言葉から想起されるものではなく、
アンチロマンの作家、ナタリー・サロートが「マルトロー」や「プラネタリウム」で提示したような意識の流れ、に支配されていて、脈略も無く断片的な思い出が駆け巡る。
悲しい出来事はそれをひとくくりに、楽しい出来事もひとくくりに、時系列もめちゃくちゃな回想が続く中、ある日起きた二男の事故死が大きな影を落としていることが提示される。
ナレーションの中、長男は「次男は19歳で死んだ。」と言っている。
にも関わらず、映像の中に現れる二男の事故は10歳前後の姿である。
観客は混乱に陥るかもしれないけれど、私たちの「思い出」というものはどこか改ざんされていて、絶対的な自分のイメージに支配されている。理性では19歳のときに死んだことを理解していても、イメージとしてある二男の死は、自分の自我の芽生えとの葛藤を持っていた幼少時代(12歳ぐらい?)の強い記憶に押し流されてしまっているのだろう。さらに彼の後悔は、他人から見れば些細な出来事の羅列であるにも関わらず、彼にとってはどこか深い傷として残っているようで、様々な角度から「善人であろうとして、善人になれなかった」自分が映し出されている。
そこには、厳格な父への反発と、それでも愛していたいという葛藤があり、それは壮年期にはいってからも変わらずに葛藤として持ち続けていたのだろう。どのようにして、父の存在を乗り越えていくのか、それがこの映画のひとつのテーマである。

さらにこの二つの物語(主に幼少期の物語なのだけれど)の合間に何度も、宇宙の形成から地球の形成へ、そして生命の誕生へと続く、自然現象を映しだした無言の映像が現れる。
その意味は明白である。単純に過去から現在へ連なる命の系譜(ツリー)が映し出されているのだろう。
生命の形成から現在の自分の置かれた立場まで、それはすべて神の手のひらの中にある、とでもいうような、そして、宇宙や地球の歴史と、名もなき個人の歴史の大きさには何の差も無い、ということを言っているのだろう。そこには「意識の流れ」が持つ特有の無作為抽出が行われていない分、やや短絡的な印象を与えるし、若干、中心の物語との関連が強引な感はある。しかし、それでも物語を分かり易くする仕掛けとしては良いと思った。

結局は、壮年期に入った長男は自分の過去を思い起こしながら、父への違和感を克服してゆくプロセスが描かれているので、神と自分との関係性というものは描かれていない。しかし、描かれていないからこそ描かれている、と言うと意味が分からないが、何事かの葛藤があり、それをどう越えてゆくのかということが神が与えた試練であり、それが人生というものだと暗に言っているのだと思う。
つまり最初から最後まで一貫してヨブ記に暗示された人生の葛藤とその克服が、生命の創世と共に描かれているわけで、とてもシンプルな構造になっている。
しかし、極めて説明が少なく、セリフも少ない。そして前述したようにナレーションで語られることと実際の映像の差。さらに意識の流れに支配された時系列の無い文脈に、見る人によっては混乱するかもしれない。その難解さも、何か人生の持つ混沌や困難さのようで、むしろ正し選択のように思える。
映画は必ずしも分かり易く物事を伝える手段では無い。場合によっては、遠回りを重ねて結論に近づいてゆく。その緩やかなスピードが心地よく、久々に良い映画を見た。

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