column

映画074 台風クラブ

『台風クラブ』 1985年 相米慎二

夏になる。田舎町に住む中学生たちが台風の接近と共に理由の分からない心の高揚にとらわれて、騒乱状態になって、もちろん自分たちでも理由の分からないまま幾人かの中学生たちが台風の直撃する中学校に潜み、一夜を過ごす。そして、その一群とは別に少女・理恵(工藤夕貴)は原宿へと向かい、見知らぬ大学生にナンパされ、そのままついて行ってしまう。
何が一体彼らに高揚感を与え、日常を逸した行動を引き起こしたのか。
映画の中でそれは全く語られることが無い。というか、むしろそこには何の理由も無いということが重要なのではないかと思う。

映画の冒頭、夜の中学校に忍び込んでプールではしゃぐ少女たちがいる。彼らが馬鹿騒ぎをしているとすでにプールには男子が一人先客としていたことを発見する。そして、少女たちは少年を捕まえるとコースロープを体に巻きつけて水の中に引っ張っては大声をあげて笑っている。
そのうちに男子は意識を失ってしまうのだけれど、少女の一人が呼びに行った野球部の少年の心臓マッサージによって事なきを得る。
少女たちにはまるで危機感が無いし、プールに沈められた少年も別に被害者意識を持つわけでも無い。彼らは、加害者としても被害者としても自覚が無く、事の重大性には全く気がつかない。
台風の直撃した中学校の中に取り残された少女を少年がレイプしようとするシーンにしても、少女は逃げているにも関わらず、根本的な被害者意識は欠けている。
理恵にしても、突然の衝動だけで原宿まで行って、場に流されて大学生に着いて行ってしまい悲しい気持ちにはなるけれど、それだからといって何かものすごい反省をするわけでは無く、突然に淋しい思いに駆られてその場をただ去って家路につく。
深夜の中学校では男も女も下着姿で踊りを踊り、台風の校庭に出て大声で歌を歌う。彼らはただそれをしたいがためにしているのだ。

ふいに思い悩むような仕草もあるのだけれど、この映画は全編を通して、ほとんどの場面で登場人物が自分たち自身の行動や言動に対して全く説明能力を欠いていて、理由が何も無いまま、行動だけで物語が綴られてゆく。
その理由の無さ、そこにはぽっかりと空虚だけがあって、すべては衝動だけで押し進められてゆく。
この理由が無いということ、衝動だけで自分たちのやっていることの重大性の気付かなさ、というものこそが、少年少女時代から青年へと移り変わってゆく過渡期なのだと思う。一切説明できない、ただそうであるからそうである、という生き方こそがその短い期間の輝きで、それがこの映画の中では台風が直撃する一日なのだ。
きっと彼らはこの理由の無い無茶な一夜を経て、一歩ずつ大人へとなってゆく。そのスタートラインに着いたところなのだ。

映像表現も時に過激で、前述のようにレイプ未遂や下着でのダンス、さらにレズごっこや未成年の喫煙シーンもある。
どれもが自分に重ね合わせたときに、経験したことではないにせよ、成長過程に覚えた衝動を見せられているようで、そこに何の理由もないからこそすべてが心の奥底に突き刺さるような気がする。

ラストシーン近く、翌日に一人学校へ向かう理恵に向かって少年が言う
「お前、少し背が伸びたんじゃないか?」
という台詞が印象的で、たった一日の出来事が彼らには永遠のように長く思えたのだろう。そして、生まれ変わったような気持ちになって、一日ではあり得ないほどの成長を他人に見たのだろう。
こんなにも瑞々しく成長の萌芽を捉えた映画を見たことが無いし、この過激な表現では今は映画が作れない。
そして僕は、この映画を見返す度に圧倒され続けて、その気持ちの高ぶりを言葉にすることがこんなにも難しい映画は無い。
しかし言葉にならないからこそ、映画が映画であることの理由になる。つまり、この映画は他の何物にも変えようがないほど映画なのだ。これほどまでに映画である強固な理由を持つ映画は本当に少ない。
映画 日本

本018 パタゴニア

『パタゴニア』 ブルース・チャトウィン

いつの頃からか僕は紀行文というものが大好きになった。なぜ好きなのかはうまく説明できないけれど、美しい紀行文というものはガイドブックとは違って全然実用性が無いかもしれない代わりに、世界のどこかにある場所が著者の目を通して主観的な場所として描かれている。だから決して自分が同じ場所にいったとしても同じ感慨を持てるかどうかは分からない。しかしだからこそ、紀行文は、著者の言葉を通して現実の場所や現実の旅が、非現実的な幻視として現れてくる。少なくとも僕にとっては旅に行く代わりに読むわけでは無く、誰かの目を通してみた現実の非現実化、旅という言うなれば非日常の世界を描く著者の心象風景がそのままそこに現われている、その美しさに心が惹かれるから読んでいる。
松尾芭蕉の『奥の細道』や内田百里痢悵に捨鷦屐戰轡蝓璽此⊆禹核區紊痢悗澆覆み紀行』に現れる日本の風景はそれぞれの目を通して全く違う見え方をする。さらにイザベラ・バードやゴンチャロフの目で見た日本は、日本人の目とはまた違う。例え同じ場所であろうとも、旅の目的や旅人の想いによってすべてが違って見える。
世界中には旅行記がたくさんあり、ことイギリスでは古くから紀行文の傑作が生まれ続けている。詳しいことは篠田一士さんの著書『現代イギリス文学』の「紀行文について」、そして『現代イギリス文学ふたたび』の「新しい旅行記をもとめて」が完璧に近い解説をしているので、興味があれば僕が書いてることなんかよりもきっとたくさんのことを学べると思う。

それでも尚且つ『パタゴニア』について少し書きたい。ブルース・チャトウィンはイギリスの紀行文作家で第一作の『パタゴニア』で一躍脚光を浴びた。49歳という短い人生は波乱に満ちていて一言では言えないけれど、この第一作目には彼の想いが詰まっている。
僕がチャトウィンという作家を知ったのは『マイセン幻影』という映画の原作者だったからで、陶器に魅せられる主人公の狂気が強く印象に残った。それ以来チャトウィンという名前だけを忘れないままある日見つけた『パタゴニア』という紀行文。僕はこのときはじめて彼が小説家であり紀行文作家であることを知り、どちらかと言えば紀行文学での評価が高いことを知った。
彼はある日、パタゴニアへ旅に出る。明確な目的があるわけではなく、自分の祖父がパタゴニアで暮らした経験があるというその一点から旅に出る。別に自分のルーツを探る旅では無い。ただ彼はパタゴニアを旅する。
そして、そこで出会った人々との交流や、ある場所で起きた事件を回想したり、祖父の奇妙な物語を語る。その内容は一見支離滅裂で、単なる紀行文だと思って読めばあまりにも色々な話が挿入されすぎているために一体どこを旅しているのかさえ分からなくなってゆく。
しかし、それを紀行文では無くチャトウィンの目を通して見えたパタゴニア、そしてパタゴニアに立った彼自身から自然と湧き上がってきた事柄を並べていることに思い当たれば、何とも単純で必然性のある紀行文だということが分かる。
後年彼の著したもう一つの傑作紀行文『ソングライン』では、内容にもまとまりがあって何を言わんとしているかということがしっかりと把握できる。この素晴らしい作品も大好きなのだけれど、全く破綻したように自分の思いに彩られた荒削りな『パタゴニア』に魅力はあまりにも強烈でいつまでも忘れがたい。

彼の旅したパタゴニアは決して牧歌的な場所では無い。鉄道も無く、孤立無援で、もしかしたら出会うかもしれない誰かを頼りにひたすらと進む。辿りつけるかさえ分からない道を行く彼の凄まじさは、飾り気の無い文章に静かに押し込められている。しかし、チャトウィンはその凄まじさを微塵も感じさせないで、彼の想いを書き続けてゆく。絶対に壮絶な体験であるはずだと思う。それなのに彼の文章には何も後ろ向きなことも書かれていないし、弱音も無い。こんなにも強い男がいて、一人パタゴニアを歩いているのかと思うとそれだけで感動してしまう。行く先々で出会いがあり、どこへ向かうにも一筋縄でいかない出来事が起き、彼の先祖の幻想的な人生が挿入され、逃避行を繰り返した映画『明日に向かって撃て』で有名な銀行強盗ブッチとサンダンス・キッドの伝説とも事件ともつかない噂の検証がある。
実際に旅をする彼の頭の中で同時に進む他の出来事が、全部ごちゃまぜになって一度に放出されているから、読む側にもその力強さや信念が伝わってくる。
こんなにも胸に迫る紀行文は後にも先にもないのではないかと思う。

本017 ハックルベリイ・フィンの冒険

『ハックルベリイ・フィンの冒険』 マーク・トウェイン

日本ではマーク・トウェインの代表作として『トム・ソーヤの冒険』が第一に知られているように思う。しかし僕がアメリカにいたころ、皆が当然のように『ハックルベリイ・フィンの冒険』を代表作に推し、それどころかアメリカ文学史上最も重要な作品の一つだとも教わった。確かに「トム・ソーヤ」に比べて物語が大きい。原文で読めば、「ハックルベリイ・フィン」の方がより散文的で彼によって語られる一人称の物語が、三人称で書かれた「トム・ソーヤ」よりも深みがある。

というか、僕は『トム・ソーヤの冒険』が嫌いである。全体にトム・ソーヤの子供っぽさと自分に対する過信にどうも納得がいかない。マーク・トウェインが大人向けに書いたということが尚更その矛盾を増長しているように思えるのだ。
まず、トム・ソーヤは冒険と言いながらも実際には殆ど自分の住む小さな村から出ずに暮らしている。何か冒険めいたことがあるとすれば無人島での海賊ごっこやら夜の墓場への探検であって、実際夜の墓場に端を発した事件も起きるのだけれど、押し並べて事件はトム・ソーヤの中で誇張され、すべてが彼の読んだ冒険物語と関連付けて語られてゆく。つまり彼は現実には何も起きていない場所で「○○ごっこ」を繰り返しているか、さもなくば、現実に起きた出来事をどこかで読んだ「物語」に置き換えてしまうのだ。本来、現実に何か起きた場合には「物語」の中から学んだことを現実に変換して対応すべきであると思う。しかしトム・ソーヤは現実の出来事を「物語」の型に押し込めてしまうのである。彼にとって現実に起こるべきことは「物語」なのであって、実際そのせいで物事は手間取り、全く現実的な対処法というものを身に付けてゆかない。いつまでたっても、トム・ソーヤは内面的な成長もしないし、他人の知識しか持たずに自ら何かを考え出すという術を持っていないのだ。しかも最終的には反省もなく結末にはどこかトムの生き方が肯定されている感がある。
これを大人たちに読んでもらいたいと思うトウェインの言わんとすることが僕には良く分からない。決して反面教師としてトム・ソーヤが存在するわけではないと思うし、彼の他人の褌で相撲を取るような生き方がいくら少年であるとはいえ、肯定し得るとは考えづらい。
その意味で物語から得るものも少なく、彼の冒険のほとんども空想の産物であるが為に、何かこじんまりとしていて僕は好きになれない。

一方『ハックルベリイ・フィンの冒険』では文字通りハックが主人公であり、『トム・ソーヤの冒険』の終わりから始まっている。前作では副次的な存在であった彼が主役の座に躍り出て、黒人奴隷のジムと共に冒険に旅立つ。
こちらは、空想の冒険では無く、文字通り冒険であり、命をかけた逃避行である。そこで起きる出来事は現実であり、その場その場で自らが考え決断しなければいけない。トムのように「物語」の中ではこうだったからそうしなければいけない、というようなことではなく、始めて起きる出来事に最良の判断をし続けることによってのみしか生き延びる術が無い、という冒険である。
だから、そこにはリアリティがある。単なる子供の遊びでは無い現実があり、トムの空想の中の大人や海賊では無く、現実の大人たちや詐欺師たちがいる。彼らを向こうに回しジムと共に生き抜こうとする姿の勇ましさや聡明さは全く前作とは格が違う。
時にハックがキリスト教的な正義から外れる自分を戒め、そしてキリスト教を心の底から信じられない自分という存在も同時に知る。それは誰しもが成長過程で経験する葛藤であり、その葛藤の存在こそが成長の鍵となる。ハックは成長する。様々な苦難を乗り越えながら、自ら考えて行動する。だから彼は成長する。そしてハックの存在は常に生き生きとして輝いている。
それでこそ成長物語なのであって、何者にもなり切れないままのトム・ソーヤとは全く違う。さらに物語の終盤になって突然トム・ソーヤが登場する。黒人奴隷ジムの救出作戦なのだが、今まで自ら考えていたハックを一蹴し、トム・ソーヤは自分が読んだ物語の中から「脱走する囚人」像を作り上げ、その枠から外れた囚人を作ることを拒む。簡単に救出できるところを石板に詩を掘れだの、囚人は必ず動物を共にしているだの、回りくどい世界を作り上げて、ここでも現実を「物語」の中へと押し込めてゆく。
この終盤は読んでいても、何とももどかしくイライラしてしまうのだけれど、トム・ソーヤは自分のやったことに大満足である。そして、ハックは前例の無いことをやろうとする一種の先駆者として存在するのにも関わらず、「今までにそんなことをやった奴はいない。」という過去の物語主義者のトムに納得させられてしまう。
そのことに関してはトウェインの言わんとすることが良く分からないが、ハックの成長は完結し、その対立軸として平均的な少年像のトムがいると思えば、少しは納得がいく。
アメリカ社会において先駆者たることの重要性は高い。その思いが『ハックルベリイ・フィンの冒険』には込められていて、ハックが新しい事柄を開拓する者、そしてトムが古き良き伝統を守る者とみれば、この二つの冒険譚は対を成しているのだろう。どちらか一方を読むのではなく、これは二つで一つの話であり、二つの人間のある方の提示なのかもしれないが、僕にとってはハックは全く魅力的な存在で、その陰にトムという凡庸な少年がいるとしか思えないという意味でも『ハックルベリイ・フィンの冒険』がマーク・トウェインの代表作であるということに大きく頷いている。

映画073 スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド

『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』 2006年 ソフィー・ファインズ

スラヴォイ・ジジェクと言えば、ポスト構造主義的な心理学者で、哲学者と呼ばれているけれども、
僕にとっては思想家。僕はヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」以降哲学の有効性というものは失われつつあって、20世紀以降の「哲学」は本来哲学が主としていた根源的な命題ではなく、細部をつつくような形になっているように思える。デリダにしてもバルトにしてもやはり語っているのは思想だと思う。話はそれたけれど、ジジェクは昔から様々な著作でヒッチコックやリンチを語っていたけれども、遂に映像として映画を語った。
もちろん、ジジェク自身がびっくりするほどの早口で2時間半、映画についてをまくし立てる内容なのだけれど、彼の偏愛する映画は主にハリウッド映画、アメリカ映画で、その大部分がヒッチコックとリンチに言及されている。

とやかく全部の内容についていうわけではないが、すべての映画において彼は、映画全体の物語について語ることは一切なく、1シーンにおける人物と事象の心理学的関係性にばかり言及する。
例を挙げればヒッチコックの「鳥」における部屋への鳥の襲撃はマザーコンプレックスの隠喩であると言う。
つまり鳥が人を襲うという表層として画面に表れているものが本質では無く、その後ろ側にあるもの(主人公の母親に対するコンプレックスが鳥の形を取って襲うこと)にこそ本当の意味がある、という。
それでは、物語自体には何ら意味が無くなってしまい、映画が物語を持つ意味が何ら失われてしまい、そして、あえて隠喩として何かを表現しなければならない理由というものが全く見当たらない。
しかも見る人間がジジェクの解説を聞かなければ分からないような意味にこそ本当の意味があるとすれば、人々は何の意味も分からないまま映画を見ているという状況に陥っていることになってしまう。
それではますます映画の物語の意味は消失してしまう。表層の意味が消失してしまう。
表層を無視してその裏側だけを読み取ろうとする。
そこがポスト構造主義と言われる所以である。
もちろんジジェクはインテリで頭も良く、映画には物語があり表層には意味があることを分かっている。分かった上で、あえて物語の所在を無視して、1つのシーンや出来事の中に隠された意味だけに焦点を当てているのだろう。
そこ正に「倒錯的」であり、細部を見ることによってそこに隠された意味を知り、それが映画全体を貫く物語を知る手がかりにしてゆく。
つまり、表層の物語だけを追うことと、細部に隠された意味をを追いながら物語を見ることでは、その表層にある物語の意味合いが変わってくる。俗に言う「裏読み」というか、簡単に言えば、ヱヴァンゲリヲンの意味の解読に人々が躍起になることと同じなのだと思う。その際に細部の意味を突き詰めていくことで表層の物語が忘れ去られてゆくということは一切無い。ただ、表層の意味合いが変わってゆくのだ。
その意味では、ジジェクのアプローチの意味は分かる。ラカンでもドゥルーズでもいいのだけれど、それは一つのアプローチであると思う。
しかし表層を追うことと細部を見ることには大きな違いがある。
特にジジェクのアプローチでは、映画の中に現れる人物を現実の人物のテンプレートとして捕える必要があるということで、映画の人物の思うこと、置かれている立場を実際世界から置換して考えて無ければならない。
しかし、その一つの人間の「型」として強烈な個性を打ち出す人物たち(なぜならば強調された人物像でなければ「物語=ロマン」を作りえないから)は、現実世界へと本当に還元できるのだろうか?
僕にはそれは少し無理があるように思える。

故に、私たちには、ジジェク的な細部の心理描写から物語を捉えて現実世界へと還元する見方と、映画の表層だけを捉えて映画を映画として完結させる見方の二つがある。
僕は、映画の中の人物は映画の中だけに生き、その画面に捕えられた人生以外には何も無いのだと思っている。
つまり、僕はジジェクのアプローチを完全に否定する。
否定するけれど、彼のやり方には有効性はあるのだと思う。
ただ僕にはあまり必要のないことで、僕はただ映画を物語として、表層だけを捉えていきたい。

なぜ、ジジェクはこんなにも心理学的な意味をこねくりまわして映画を語るのか。
僕には、何となくそこには、ジジェクがインテリで聡明にも関わらずハリウッド映画のような大衆映画を愛している、ということのジレンマがあるように思えてならない。
そして、映画というものにどこか真の芸術には届かない大衆性が常に付きまとっていることを何となく感じているからではないかと思う。
そんな映画が大好きだけれども、インテリを自負する自分が理由もなくただ単に「映画が大好きです」というのが恥ずかしい、という、言い訳のための映画なのだろう。


―映画は究極の倒錯的表現である。映画は我々が欲情するものを与えはしない。何に欲情すべきかを教えるのだ。−スラヴォイ・ジジェク


ジジェクの発言、そしてこの映画の存在そのものがポスト構造主義的で、僕は批判的ではあるけれども、その倒錯には価値はあるのだと思う。
映画 外国

映画072 黒い眼のオペラ

『黒い眼のオペラ』 2006年 ツァイ・ミンリャン

アメリカに住んでいたとき、ツァイ・ミンリャン監督作品の集中上映で、一度だけ監督と話をしたことがある。映画作りのコンセプト、都会の中に生きる人々の時に不確かな交流や時間の流れ、をその時は『ふたつの時、ふたりの時間』を題材に話していたのが印象的だった。
僕が初めて見たツァイ・ミンリャンの映画は『河』で、冒頭から最後、都会の中で生きる人間の切ない運命に至るまで、本当に大好きな雰囲気に満たされていて、それ以来、ツァイ・ミンリャン監督の作品はすべて見ている。そしていつも彼の作品が常にギリギリの危うさと美しさを持っているのはなぜなのだろう、と思う。答えは彼の映画作りの苦悩にあるのかもしれない。ツァイ・ミンリャンは、かなり長い間、講演会を開いて資金を捻出して、作品を撮り続けていた。他の監督には無いゼロからの映画作り、自分の人生すべてを映画につぎ込んでいるその姿勢が次々に傑作を生み出す要因なのかもしれない。(最近では台北にコーヒー屋をオープンして、コーヒーの淹れ方と映画の見方をレクチャーしつつ生計を立てているらしい。)

ツァイ・ミンリャン作品はどの作品でも共通して、台詞が少なく、都会の中の異質な空間に舞台をおく。台詞の少なさは物語の核心が台詞にあるのではなく、人間の存在そのものに意味を見出しているように思え、沈黙がより強固な言語として響いてくる。そして、作りだされる異質な空間(時にそれは『Hole』に見られる突然アパートメントの天井にあいた穴であり、『落日』に現れる映画館の中にある迷路のような通路である)は、それ自体が日常生活に現れる奇異なものへの物理的な隠喩というよりは、それ自体が放つイマジネイティブな美しさ、それそのものの状況に美を感じているからに他ならない。つまり、アパートメントに穴が空き、『黒い眼のオペラ』では工事途中のビルディングは水に満たされていていること、それ自体にトァイ・ミンリャンの思う美しさがあ、そこに共感できる人間にとってはこの上もない美しさになり得る。
特に、彼の作品にはしばしば本来存在し得ない場所にそこに水があり、何の説明も無く登場人物たちはその水と共存している。その湿度の高い映像の持つ異質な雰囲気は、なぜかリアリティを持って実感として浮き上がってくる。

『黒い眼のオペラ』では、ツァイ・ミンリャン映画のアイコン、リー・カンションが、寝たきりの男と、路地裏で暴行を受け見知らぬ男に助けられて介護を受ける二役を演じている。助けた男はどうやらリー・カンションに魅かれているらしい。そして、回復したリー・カンションは飲食店で働く女と親しくなり、恋に落ちる。リ・カンションを愛する二人は互いに存在を知らぬまま、愛す。そして、その二つの愛の挟間にいるリー・カンションは穏やかにその愛を受け入れ、ラストシーンでは、水の上に幻想的に流れるベッドの上に3人が横たわっている。
言葉で説明すれば、何の問題も発生しなかった三角関係の話なのだけれど、一つ一つのシーンの美しい構図。言うなれば縦の構図を見事に使いながら、美しい世界を作り上げている。そして、沈黙に満たされた映画には、2時間余りある時間、それ自体が物語である。言葉で説明出来ない何かが必要であるからこそある時間。静かに流れてゆく映画の中の時間、その尺度が物語なのだと思う。一人の男が怪我を負い、そこから回復し、他者からの愛を知る。それが少ない言葉の中で語られるからこそ、時間に意味があり、その長さがあるからこそ、心に響いてくるのだと思う。
そして、もう一人の主人公、寝たきりのままの男。彼はただ眼だけを動かし、そこに言葉は無い。ただ、自分の見える範囲内の世界だけを見つめながら横たわっている。彼の存在こそが映画の核心なのだと思う。
つまり、人と人が分かりあう為に必要なのは言葉では無く、ただ真っ直ぐに見つめることなのだ。
彼の存在があるからこそ、3人の恋の物語は形を成し、無言の中で綴られる愛に意味が生まれる。
その幸せな結末には、葛藤や矛盾は無く、ただ安らぎがあるのは、黒い眼でまっすぐ見つめた先には、自分対相手、というただ一つの風景しか存在しないからなのだろう。
そして、それを見る僕も、同じような安らぎを感じる。

ツァイ・ミンリャン監督は、言葉以外で物語を綴れる稀有な監督であり、彼の描き出す都会の中の幻想的な神話は、心に深い思いを想起させる。
それはどの映画を見ても思うことだけれど、この『黒い眼のオペラ』において、その沈黙と魅惑的な空間の演出は完璧に近い形で完成したように思える。現在生きている監督の中で、僕にとって一番信頼できる監督は、トァイ・ミンリャンだと思う。

映画 外国
<< 2/20 >>